私の母は、毒親である。父に浮気をされて離婚したのに不倫して、それを子供のせいにするような人だ。自分にとって不都合なことや、子供と向き合わなければならなくなると逃げ、少女のようによく泣いた。
「もう放っておいて」と、男ができて別れると情緒不安定になった。お腹がどんなに痛くても、歯が痛くても、病院に連れて行ってくれなかった。不登校になった私の担任にメールで「あの子はただしんどいアピールしているんです」と言っていたのも知っている。
やがて血を吐いて学校から救急車で運ばれたときも、「大丈夫?ごめんね」なんて言うはずもない。何も言わなかった人だ。そう、そこそこ強者の毒親である。
私の中で「母親」は15歳ですでに死んでいる。期待することも理解を求めることも、やめてしまった。泣きながら母に書いた「気持ちを分かって欲しい」という最後の手紙は、翌日、ゴミ箱に入っていたのだから。
しかし、今も母は生きている。
毒親だと確信しているのに、なぜ捨てられずにいるのだろう。今回は筆者の毒親エピソードと共に、毒親との向き合い方や今現在の考えについて書いてみたいと思う。
毒親をなぜ捨てられない?「人間の情」に訴えかける毒母

自分の親のことを「明らかに毒親」と分かっている人でも、毒親を「死んだ(私に親はいない)と思いつつも結局捨てられない」という複雑な思いを抱いている人は多いと思う。
その人によっても状況は違うけれど、筆者の場合は「捨てられない」というよりは「もう捨てられなくても仕方がない」という領域に達している。その理由は、ちゃんとあるのだ。
冷めた自分と、真っ当な自分が共存している
毒親は、歳を取れば取るほど、「私はさみしい」「かわいそうだから優しくして」と遠回しにアピールしてくるものだ。毒親はどれだけ時が経過しても毒親じゃなくなることはない。
「私もいつどうなるかわからないから」なんて言って「死」を連想させるようなことを言ったり、「私が死んだら保険金の受け取りはあなたよ」なんて、全くどうでもいい話をしてきたりする。そう言えば「そうかそうか。もう歳だし、優しくしてあげなくちゃ」と思ってもらえると思っているのだろうか。
もしくは、そんな言葉を期待している母の姿が、そこにいなくても簡単に想像できてしまう。こんなことは幾度となく起こっている事なので、もはや笑い話というか「毒親あるある」かなと鼻で笑って言えるレベルになっている。
くだらない。ばかばかしい。心からそう思っている。
でも、まんまとそこで自分の中の良心がこう思うのだ。「この人もいつかは死ぬんだな」と………。これはもう、親だからとか産んでくれたからとか、そんな感謝の念ではない。「同情にも似た哀れみ」と言えると思う。
あわれだな。こうやって本当に誰からも愛されることなくこの人は死んでいくのだ。親とか母とかを抜きにして考えても、誰かの死についてその場で「ゴタゴタ」するのはみっともないと感じる。
だから私は、毒親を捨てられずに、みっともない自分になりたくないから、いつかくる毒母の最期を見送る決意を持っている。「誰が葬式のお金を出すのか」「保険金の受け取りはどうするのか」なんて、久しぶりに集結した身内が言い合うのを、私は見たくないのである。
「親の老化や死に対して、誠実で真っ当な対応ができる人間でありたい」という呪縛があるのだと思う。1人の人間として、1人親で再婚もしなかった毒母がひっそりと死に行くのを、「当たり前だろ。自業自得だ」と吐き捨てられないのだ。
本当は、自己満足。自分のために毒親を捨てられないのかもしれない。
こうやって、ひどく冷めた感情の自分と、毒親の死を人間としてちゃんとしてあげようと思う自分、その矛盾した対極にある二つの感情が、一緒に私の中で生き続けるんだ。
自分が大人になってしまった「悲しさ」
筆者はもう自分で家庭を持ち、子供をもうけている。毒親育ちの人間が親になるということ。これは、「私の親はやっぱりどこかおかしい」とか「どう考えてもやっぱり狂っているのだな」と分からされることでもあった。
あの人が私に平気で浴びせてきた言葉、ありえない行動も、自分が親となるとさらに実感するものだ。だって自分は間違っても気が狂っても子供にそんなことはしないな、と思うことの連続なのだ。
それは絶望を感じることでもあって、自分が我が子を愛おしいと思えば思うほど、自分の親は毒親であると言う事実が重くのしかかってくることもあった。
しかし、自分も大人になってしまったという悲しさもある。その悲しさとは、嫌でも「理解してしまう」ということだ。毒親のやることには共感は1ミリもできない。でも、物質的なしんどさ、苦労、仕事の責任……そうしたことは、残念ながら理解できる。
子供の頃はわからなかった、1人で子供を育てることの厳しさ、孤独、経済的なプレッシャー。だからといって子供に何をしてもいいわけじゃないし、子供に「あなたのためにこんなに苦労しているのよ」という罪悪感を植え付けることはあってはならない。
でも、苦労してきたんだという事実だけは認めざるを得ない。
だから逆に何もわからない子供のままでいられたらよかった、とも思う。毒親だと分かっていながら理解もしてしまう悲しさ。これが私の「大人になってしまった悲しさ」である。
兄弟間での連鎖、摩擦
毒親を捨てられない原因は、兄弟関係のことも大きい。筆者は3人姉妹の末娘である。つまり順番で言うと、3番目の娘。姉二人は、数年前から完全に毒母との関係を絶ち、一切の関わりを持たなくなってしまった。
私はその事実を知っているし、姉の言い分も気持ちもよくわかる。だから、二人が同時期に縁を切ったあと、「あれから毎日が平和でしかない」と言っていることにも、違和感は持っていない。
しかし姉がいわゆる「死んでも知りません。葬式にも出ません」という頑ななスタンスを取ってしまった以上、母の依存は一直線に私と私の子供(孫)に向かっていることも否めない。それに私には「ちゃんとしたい」という先ほどの良心のカケラのようなものが残っているのだから、姉たちもそれを薄々感じ取っているに違いない。
「あんたは優しいから、うまくやれるんだろうね」と言われる。「イヤになったらいつでも捨てなよ」とも言われる。
しかし私の本音は「うまくやれないしいつでも捨てることはできない」と思っている。毒親を捨てられない人は、結局「悪者になりきれない、優しいお人好しな人」なのだと思う。これを読んでくれているあなたも、そうじゃないかな。
そもそも私の場合、親が毒母→長女が心を病む→次女が反抗する→1番幼い私が総攻撃に合う、という家庭だった。だから、姉も私にとっては「毒姉だった」なんて、今更言わないけれど、長く苦しんできたから、もういいよと諦めている気持ちも強いんだ。
今、毒親を捨てられないことで苦しんでいるあなたへ

毒親を捨てられないことで今どうしたらいいのか?と苦しんでいるあなたに、メッセージを贈りたい。
毒親を捨てるか捨てないか、決めるのはあなたでいい
あなたは、捨てるか捨てないか、いつだって選んでいい立場であることを忘れずにいてほしいと思う。もちろん、色々な状況があるとは思う。でも、あなたは選べない立場ではない。毒親の元に生まれて、これまでずっと、頑張って頑張って耐えてきた。
幼い頃は、自分にとって「親が必要かどうか」なんてとても選べない。むしろ毒親であることすら気づかずに、それが当たり前になった家庭で育っていく。でもあなたはもう自分の人生を生きているんだ。
「自分の人生にとって、この人は必要かいらないか」と、1人の人間として選択してもいいんだ。産んでくれたのも育てられてきたのも、あなたが頼んだわけではない。親がそう決めただけの話なのだ。
あなたは親の手の中にいるわけじゃない。自分の意思で、自分の人生を、自分の必要な人たちと共に生きていける。そのことに罪悪感なんて持ってはいけないんだよ。
疲れ果てたなら、明日毒親を捨てたっていい
筆者のように、兄弟や姉妹の間でも「逃げるが勝ち」「捨てたもん勝ち」のようなことが起こってくるし、同じ状況になっている人もいると思う。
でも、現状あなただけしか毒親と接触していないとしても、いざとなったら明日捨てたっていいんだ。毒親は、しぶとい。心配させるようなことを言ってくるけど、簡単には野垂れ死にすることなんかない。
人は、やがて子供から大人へ、大人から子供へ帰っていくものだ。ただ、毒親は子供のまま大人になり、子供のまま子供へ帰っている人。
あとになって寂しいつらいとわめくのは、毒親が子供だからだ。あなたは、もう、毒親より成長した大人である。だからといって、あなたが毒親を育てる必要なんてないんだ。
捨てられないなら、線引きをしっかりと持って流されないこと
筆者のように、毒親を捨てられないことを受け止める人がいても、それはそれで「アリ」だ。ただ、捨てられはしないけど、嫌な時は拒否もするし、話したくない時はブロックもするし、イラっとすれば無視もする。それでいいんだということを、強く心に刻んでほしいと思う。
毒親はすでに「親」ではないと思うのが賢い。だから、苦手な人にする対応と同じように、ある程度の線引きを持ってこれからも「付き合っていく」という方法もある。
時々暇になると送られてくる意味のないLINE攻撃も、同情を引きたいがための「しんどい」というアピールも、急に感謝や尊敬の気持ちを言ってくる変な媚び売りも、相手が他人であればうまく逃げたりやり過ごしたりするだろう。
「親ではなく、苦手な人だけど付き合っていかなくてはいけない人間」として接する。親も我が子としてまともに接することなどできないのだから、そのくらいがちょうどいい。自分が冷たい人間なのでは?なんて思うことは全くないんだ。
毒親を捨てられないあなたでも、「あなたの人生」を生きる決意

毒親は親ではない。でも、親であると言うことが私たちの心を縛り付けている。「毒親を捨てられない」という悩みを抱える人は、尽きないはずだ。
でも冒頭で言ったように、私の中で私の「母親」はすでに死んでいる。でも毒母は、生きている。
だから今は、「親である」という目線で見て付き合ことをしていないのだ。毒親を捨てられない自分でも、自分の人生をきちんと生きて、自分の意思で未来を生きていかなければならない。
やがて最期を迎える、自分の毒親。死は誰にだって平等に訪れる。毒親だから死ぬときも1人で死ねばいい、私は知らない……そう言えない自分を少し誇りに思ってみようと考えている。