文才ってなんだろう。文章って、しょせん才能がものを言うんだろうか。
「才能のある人はいいよなぁ。」
そんなことをよくいわれる。
言われるたびに「文才ってなんだろう」って思う。私は文章を書いたり、誰かが書いた文章を直したりする仕事をしている。でも、文章の才能があるとは思っていない。
他の誰かが書いた本や記事を読めば読むほど「自分にはこんなものは書けない」と感じることがある。
多くの物書きが「自分には才能がないのかも」と思うことがあると思う。でも、私は基本的に文章は才能ではないと思っているんだ。
文才(文章の才能)って何?
文章と言っても、いろいろな文章があると思う。
- 説明文
- 論説
- 小説
- エッセイ
- 詞
すべて系統が違うし、目的も違う。
私はこの中で言えば「エッセイ」や「説明文」を書くのが得意だと思う。
ライターの仕事では、主に「説明」を求められる。より説得力のある流れで、読んでいる人の困ったことや悩み、知りたいことを解決するためのロジックが必要だ。
またプライベートでは「エッセイ」を書くのが好きだ。エッセイとは、日本語で随筆という。書き手の考えたことを自由に書くスタイルのこと。考えたことを文章として人に「見せる」という作業だと思う。
この2つは、よく似ているのだ。例えば、商品のレビュー記事を書くときは、その商品の良さを「説明」する。
エッセイの場合も、自分が考えたことを「説明」する。
基本的には同じことだから、結局私は説明文を書くのが得意なんだと思っている。
この「自分はどの系統の文章が得意なのか?」を見極めることってすごく大事だと思うのだ。
私がエッセイを書くようになったのは「説明文」を褒められることが多かったから。ライター業では「情報をまとめる力がある」と評価されたことや「読者にとって必要なことを順序だてて書くのが上手」と言われてきた。
決して「文章が素敵!」「才能ある!」なんて言われたことはない。
でも、そんなことをしているうちにだんだんと「自分の考えたこと、頭の中で悶々としていることを誰かに説明したい」という気持ちが湧いてきた。
自分の思考を文章化するときに気をつけていること
私が文章を書くときに、意識していることは「ない」。
何も意識しない。ほとんどが、赴くままに書いていると思う。
基本的な文法や、漢字、言葉の意味をちゃんと理解して使う……とかは意識するけど、それは物書き業としては当たり前のことだ。
だから、あえて「やっている」ことがないのだ。
ただ、自分のエッセイを書くときに大事にしていることがひとつだけある。
それは「ひらめき」だけを書くということ。
「これってもしかして、スゴイ発見かもしれない!」
「あ、なんかわかった気がする!」
そういうときだけ書く。言いたいことがあってもまとまらないときは、noteの下書きに途中まで書いて保存したり、自分の持っている紙のノートにメモしておく。
でも、そういう中途半端なものはほとんど使い物にならず、そのまま消すか捨てることになる場合が多いのだ。
絶対に、なんとなく、おぼろげに感じたことは説明できない。
「あー!そういうことだったのか!」という発見には「ロジック」がある。
ロジックとは思考の道筋や論理のこと。
「ロジカルシンキング」なんて言葉も流行ったりしているが、やっぱり筋道や理論はものすごく大事なのだ。
説明するのに、筋道や理論がないと何の説得力もないから。
ひらめきとは、今の自分が持っている情報が全て線で繋がる瞬間のこと
私が文章を書くときに大事にしているのは、ひらめき。
このひらめきというのは、今までの経験や知識から浮き上がってくる、バラバラな点のようなものだ。
いわば、ジグソーパズルのピース。
ジグソーパズルって、少しずつ、わかるところからせめて行って、ピースが最後の数個になったときにはもう、大して考えなくてもピースをパパパパーっとはめることができるんだ。
考えなくても、わかる。
これが「ひらめき」だと思っているんだ。
だから、ひらめきっていうのは「今までずっと考え続けてきたことが、最終的に固まる瞬間」なんだと思う。だって、ものすごく感動するし、嬉しい。
今までの積み重ねが形になる瞬間。それが「ひらめき」なのだと思う。
そして、そのひらめきを大事にすると、文章はそれほど考えなくてもスラスラ書ける。
別に、どんな書き方でもいい。起承転結でもいいし、時系列でもいい。PREP法だのPASONAの法則だのといった行動心理学的文章術は、エッセイには必要ない。
自分の中の「経験」と「知識」だけでいいのだ。人生経験豊富な人は、やっぱり人に伝えるのが上手いと感じる。話でも、文章でも同じ。考えていることの奥行きが深い人ほど、経験と知識を持っているから。
経験が何もない人なんかいない
自分には誇れるような経験も知識もない。
そう思う人がとても多い。
でも、そんな人はいないと思う。
私は、人生で「友達」と呼べる人があまりいないし、友達と放課後遊んだ経験もない。部活をしたこともない。海外に行ったことも、飛行機に乗ったこともない。最終学歴は通信制高校。正社員として働いたこともない。サークル・合コンも行ったことがない。
自分の好きなことを、自由にやる時間というのはほとんどなかった。
でも「しんどかった」「嫌だった」「泣きたかった」「死にたかった」という経験を持っている。
だから今でも、ほとんど「楽しかったこと」「成功したこと」「人よりも秀でたこと」を書くことはなくて「なんで苦しかったか」「なんでしんどかったか」「なんで自由ではなかったか」を書くことが多い。
何もない自分には、なぜ何もないのか。なぜ自分のことを「何もない」と思うのか。そういうことばかり書いている。
それが私の「経験」ということになる。
それに「知識」をプラスすることで、説得力のあるエッセイ、つまり「説明」が通用するようになるのだ。
知識は、何でも手に入れられる時代。豊富な経験は知識を超えることもある。
自分には知識がないから。
そう言う人も多い。
知識なんて、今はいくらでも入手できる時代だ。SNSでもいいし、このようなネット記事でもいい。本を読むことも財産になる。今は動画で丁寧な説明をしてくれるものもたくさんあるだろう。
自分の好きなものを選べばいい。
それに、経験だって知識のうちだ。
例えば、医療従事者の場合はネットに記事を寄稿するときに「経験だけ」を元にして記事をかくことができる。これは「経験」は「知識」に勝る部分をもっているため。百聞は一見に如かずと言い、いくら読んだり聞いたりしても「見て感じたこと」を超えることはできない。
だから、異常なほど経験が豊富だったり、波乱万丈な人生を送っている人は、それだけで経験と知識を両方クリアしていることがあるのだ。
「~って思った!」「~だと感じた!」で終わるのは、日記であって「人に読んでもらえる文章」にはならない。
私の場合、経験がとても乏しかった。一般的な人が経験することを経験していないことや、自由な時間をもつという期間が異常に短かった。
だからその部分を「知識」でカバーするしかなかった。
私はこの目で見られない景色や価値観を「文字」と「文章」で見てきた。
それが結果的に「文才」という形になった、というのは強く思っていることだ。
本当に読者に響く文章は、才能でも正確さでもなく「内容のリアリティ」がすべて
本当に「誰かに何かを伝えたい」という気持ちがあれば、才能やセンスといったものを超えられると思う。
「自分には才能が足りないから文章が書けない」と思うなら、やめたほうがいいかもしれない。
「自分はどうしてもこれを誰かに伝えたいから、足りないものを補いたい!」と思えば、最高の文章が書けるはずだ。
それは、基本的な文章スキルを磨くことかもしれないし、文章を使った行動心理学かもしれない。ブログやメディアの運営方法を学ぶことかもしれないし、心の中をオープンにする勇気かもしれない。
何も、補うのは知識だけではない。自分の内面を人に見せる勇気とか、自分の心と向き合う勇気かもしれないのだ。色々な角度から「自分」を見て人生に本気で悩まないと、刺さる文章なんて書けないんじゃないかなぁと、私は思っている。
何かが足りないと思うなら何かを足すしかない。その何かを補うことを「面倒だ」「自分にはできない」と思うなら、あなたが文章で人の心をつかむのは向いていないことなのかもしれない。
それをやってでも、何かを伝えたい、発信したいという気持ちがないとできない。書かなきゃ、ではなく「書かずにはいられない」と思ったときの感覚を大事にしてほしい。
他人の文章を読んで「これは書けない」と思うのは当たり前
他人の文章を読んだとき「こんなもの、自分には書けないなぁ」と思うことがある。私は、いろんな人の文章を読んで「あぁ、いいなぁこんな文章が書けたらな。」としょっちゅう思っている。
でも、そう思うのは当たり前なのだ。
まず扱っている題材が違うこともある。
さらに「経験」も全く違うし「知識」も違う。
だから、経験×結果=文章をしたときの答えがまるっきり違うのは当然なのだ。自分と違うものを持っている人を見たときに「自分にないものしかない」と思うのは当たり前。どんな文豪でも、きっとそうなんだと思う。
だから、他人と比較したり、自分の文章のレベルを図ろうとするのは無意味だと思う。全てはリアリティと、自分の思いを伝えるために必要なことを見極める力。結局文章の才能とは、あまり関係がない。
何を書くか? 何を伝えたいか? という人生のテーマを決めることから、文章の才能が生まれる
文才は、ひらめきだ。文章力や才能は、自分の人生そのものだと思う。それは、自分語りをするということではなくて、自分の人生経験と、知識がつながった「ひらめき」を見逃さないということ。気づきや発見を見逃さないこと。常に自分の人生や自分の発想に「感動」していくことが、最大の才能だと思っている。/夏野 新