
産まれてきたのではなく、産み落された。
物心ついた頃から、そんな感覚を持っている。母は私を不要だと言い、父は私をあらゆる手段で虐げた。愛される兄と姉を横目に、何度も染みだらけの砂壁に問うた。
「どうして、私だけ?」
ざり、と音を立てて砂壁を指で削る。爪に挟まった焦げ茶色の壁を床に落とし、きらきら光る金色の粒だけを探してゴミ箱に捨てる。後に残った汚い残骸だけをかき集め、机の引き出しにしまった。それが私の日課で、日増しに部屋の砂壁は私の爪痕だらけになっていった。
引き出しのなかに溜まり続ける壁の色は、一定の汚さを保ったまま、ざりざりと不快な音を立てて文具たちに纏わりついた。
二人で終わりにするはずだった子ども。私は予定外の三人目だった。父は避妊をしない男で、母はそれを我が子に包み隠さず話す女だった。望まぬまま、中に無理やり出された結果できたのが私だ。それを聞かされた私は、ただ阿呆みたいに立ち尽くしていた。
取り戻した記憶と、私以外の”わたし”

昨年の夏、強い解離症状が起きた。そこで私は初めて、自身が「解離性同一性障害」である事実を知った。20年近く数多くの病院に通いながら、一度としてその病名に辿り着いたことはなかった。
40歳を手前にしてようやく、自身の持つ問題の大きさと共に、失われていた記憶を鮮明に取り戻した。おそらくそれは、まだ一部。すべてを思い出すのがいつになるのか、私に知る術はない。
「虐待」という漢字を見るだけで、物悲しい気持ちになる。
「虐げられるのを待つ」
その通りの日々を、17年も耐えた。得たものは、何もなかった。身体と心に消えない傷痕を残し、後遺症を患い、失ったものの数は数えきれない。
父が自身の性器を初めて触らせたのは、私が5歳の頃だった。
そのとき生まれた人格が、幼い女の子である「サクラ」だ。サクラは私の代わりに、父の性器を手や口で慰める術を教え込まれた。失敗すると罰を受ける。そのたびに味わった痛みや恐怖が原因で、彼女は今でもありとあらゆるものに怯えている。
私の故郷は、夕方になると独特のメロディーが流れる。その音楽を聞いただけで、彼女は当時を思い出して怖がり、泣きじゃくるらしい。故郷に住む友人と電話で話している最中、交代したサクラの耳にその音楽が聞こえてしまった。取り乱して泣く様は、子どもそのものであったと友人から聞かされた。
”傷つけられることが前提”なのは、何故?
初対面の人に限らず、他人に自身の虐待体験のすべてを話すのは困難だ。話し手側も、聞き手側も、かかる負荷があまりにも大きい。人には誰しも、話せないこと、話したくないことがある。”知られたくない”感情の裏側に隠されているのは、傷つけられた自尊心をこれ以上削られたくないという切実な思いだ。
セカンドレイプという言葉をSNS上でもよく見かけるが、一度開いた傷口を言葉でこじ開けられる痛みは想像を絶する。だから人は口を噤む。知られないように必死になる。自分が悪いわけでもないのに、罪人は加害者であるはずなのに、まるで自分が悪いことをしたみたいに、小さく怯えて事実を隠し、そっと息を殺している。
私もそうだった。ずっとそうやって生きてきた。過去を知る唯一の幼馴染以外、誰にも言えず、知られず、ただ一人きりで苦しい、苦しいと喘いでいた。
傷ついた過去をカミングアウトするのが偉いわけでも、尊いわけでもない。言うか言わないかを決めるのは本人の自由だ。どちらを選ぶかが大事なのではなく、どちらを選べばより自分らしく生きられるかを何よりも優先すべきだ。
傷口を表に出す。それは更なる痛みを受ける覚悟を伴う。だから口を噤む選択も、自身を守るために必要だと私は思う。しかし、同時に思うのだ。何故、傷つけられた過去を告白することにそんな覚悟が必要なのだろう。
「辛かった」「痛かった」
たったそれだけを伝えるのに、どうして”傷つけられることが前提”でしか口を開けないのだろう。
子どもだった私にできたのは、待ち構えることだけ

傷口を増やさないために、父は同じ箇所を繰り返し焼いた。胸元に残る丸い焼痕を見るたび、胸が塞ぐ。洋服を着ているぶんには目に付かない。しかし風呂に入るたび、下着を外すたびに、鏡のなかの私の左胸の上部、谷間の境目にほど近い場所に、ひきつれたように膨らんだ痕が物も言わずに鎮座している。この年まで消えなかったのだ。きっと一生消えない。
身体検査のたびに、「見つけて」と心のなかで祈っていた。でも誰も、気づいてくれなかった。治りかけの傷口に張った薄皮を、容赦なく破られる。
いつの頃からか声さえ出さずに耐えられるようになった。唇を噛んでただその瞬間が過ぎ去るのを待つ。私にできたのは、いつそのときが来てもいいように身を固くして待ち構えることだけ。
無力だった。でもそれは、私が弱かったからじゃない。私がまだ、子どもだったからだ。
「お前が望んだんだ」と父は言った。「お前が悪いんだ」と何度も刷り込まれた。家を飛び出したあとも、その言葉は呪いのように私に染み込んだままだった。
自分が選んだわけでも、あの生活を望んでいたわけでもなかった。煙草で焼かれる痛みより、性交の痛みのほうがマシだと思っていた。それくらい幼かった私に、何ができたっていうんだろう。
父は公務員で、地域の様々な役員や市長とも繋がりがあった。私が何を言っても、「誰も信じない」と言われた。その脅しを、私は面白いほど素直に信じた。そして実際、私の声は何度でも掻き消された。
「運命なんて言葉で、かるがるしくかたづけないでくれ!」
感触や臭いを思い出すたび、強い憎悪が湧いてくる。しかし同時に「どうして」という感情も強く湧き上がってくる。何度問うても答えなんて出なかった。いい加減わかっている。そんなものは、はじめからないのだと。私が虐げられていたことに、理由なんてない。
前世で悪行を働いたからだ。
カルマが残っているからだ。
そういう運命だったんだ。
その辛さを糧にして誰かを救うためだ。
それらしい理由を並べられるたびに、声にならない叫びが全身から溢れた。
ある日、自身の声と寸分の狂いもない台詞を物語のなかで見つけた。その瞬間、大げさではなく「救われた」と思った。慟哭しながら、その台詞箇所を見つめ続けた。
「あの日々をーあの苦しみをー運命なんて言葉で、かるがるしくかたづけないでくれ!」
上橋菜穂子著作『闇の守り人』より
「運命」
便利な言葉だ。あてがうだけで、何となくそれらしく聞こえてしまう。しかしその言葉を無理やりはめ込まれた側は、歪にゆがんでしまうのだ。正しくないパズルのピースを、力づくで押し込んだときみたいに。
私の痛みに理由なんて要らない。どうしてもそれが必要だと言うのなら、せめてその理由くらいは自分で見つけたい。誰かに無理やり押し付けられた正論じみた言葉を、私は必要としていない。
あの日々を、あの苦しみを、何もかもわかってもらうのはきっと不可能だ。私が他人の痛みや苦しみのすべてを理解できないのと同じように。ただ、それでも伝えられることはある。
物語のなかで見つけたカケラは、淡くぼんやりと光っている。見つけた当時も、今現在も。粉々に砕かれた自身の内部は、あちらこちらに散らばってしまった。それを見つけるのは至難の業で、しかし私はその代わりとなる温かなヒカリを見つけた。
物語のなかに在る、無数の言葉たち。そのヒカリを頼りに、私は自身のカケラを探す旅をはじめた。いつからかはじまったその旅は、今なお続いている。おそらく死ぬまで、終わりなき旅は続くだろう。その道のりで見つけたものを、私は一つひとつ取り戻していく。
傷口は未だ癒えない。いつの日か癒える日がくるのか、それさえもわからない。ただ、それを踏まえた上で私は今日も生きるし、明日も文章を書く。「痛かった」と伝えるために。「痛いと言っていいんだよ」と知ってもらうために。そう伝える必要のある子どもがいなければいいと、儚くも願いながら。/碧月はる