「母」とは別人の「ママ」という存在

私には「母」と「ママ」がいた。
「母」は私を産み、育ててくれた人。言葉どおりの「母」だ。「ママ」は赤の他人だった。学生時代に2年間アルバイトしたスナックの「ママ」。
友人とのルームシェアを機に、数ヶ月間だけママの自宅に借りぐらしをすることになった私は、大きな一軒家の二階の端の部屋に住み着いた。大きな窓のある広々とした部屋、コンロやシンクもある。
スナックの出勤前にママはよく、早めの夕飯を準備してくれていた。何人分の食事なのかと目を丸くするくらいの大ごちそうだった。その家庭的な姿は、スナックでお客さんにやたら強いお酒を薦め、自分も同じ量を飲み干すあの豪快なママとは別人のようだった。
ママの親切さが苦しかった。血のつながりのない人と挟む食卓は、異質で、あまりに上滑りした「家族ごっこ」だった。居心地の悪さを感じる一方で「愛される娘」を懸命に演じてしまう。
苦手な食べ物があっても、その抱えきれない親切心を前にするとそんなことは言い出せなくて、私はなるべくそれを顔に出さないように努めながら、噛まずに飲みこんだ。
ママは、実の娘に避けられていると言った。孫を預けられることはあっても、娘夫婦はこの家には寄りつかないのだと。
「お節介な所がイヤだと言われたことがある」とママが自虐的に笑う時、私は食べきれない夕飯を前に少しだけ納得しながら、同じ温度で笑い返した。
この人を傷つけてはダメだ。
その言葉の後に「可哀想だから」と付け加えるのは、本当に残酷だと自覚があった。
産後、好きなことへの熱意を失っていく

スナックで働く大学生だった私は、卒業後すぐ出産して母親になった。
日ごろ目にする小説や映画の感動的な作品はどれも親子愛に満ちていて、だからだろうか、私たちはそれを長年刷り込まれてきた。つまり、出産を経験する前から「母親にとって子供がどれだけ大切なものか」が予測できていた。
“子供は何にも代えがたい宝になる。「お母さん」になれば必然的に幸せになる。” 私はそう信じて疑わなかった。その裏にどれだけの苦労があるのかなんて欠片も想像することなく。
出産後に待ち受けていたのは、現実と理想とのギャップ。
家事と育児に追われる毎日の中で時間はあっという間に流れていく。「今日何をしたか」は答えられないのに疲労は着々と蓄積されてしまう。
私の場合、疲れがもたらすのは「意欲の低下」だった。何をする意欲も、好きなことへの興味も、音もなく静かに薄まっていった。
世間で話題になっている漫画に追いつけるはずもなく、更新されることのない本棚には読み飽きた漫画ばかりが並んだ。用もなく書店やCDショップに立ち寄るのも、一人でレイトショーを観に行くのも大好きだったのに。
私は、好きなことを一つずつ忘れていった。
「母親ならば24時間ずっと子供のことを最優先に考えなければいけない」。世間で求められる「お母さん」像はあまりに重く、到底抱えきれない。
好きなことを忘れていく自分を、受け入れられなかった。
「お母さん」になれない自分を、はしたないと思った。
「母」のようにも「ママ」のようにもなれない

産後、欝々とした感情を抱える時、よく自分の「母」のことを考えた。
専業主婦で、三人の子の子育てに尽くした母。趣味に興じることもなければ自由に外出することもなかった。ただ、その姿をいくら鮮明に思い出せても、将来の自分とは重ならなかった。
そして時々、ほんの時々「ママ」のことを考えた。スナックを切り盛りし、強いお酒を毎晩飲んで、大きな一軒家に一人ぼっちで住むママのことを。
けれど受け取った親切を指折り数えても、憧れることはなかった。
「母」と「ママ」と「私」。それぞれがバラバラで、それぞれが自分を正義を譲れない。
我が子に尽くした「母」。
我が子の尽くせなかったぶん他人に尽くした「ママ」。
我が子より自分に尽くしたがる「私」。
それなのに世間の目は、それらの差異や葛藤や孤独など気にも留めない。私たち全員が「お母さん」という単純な名詞に括られてしまうのだろう。
一体、この世界には何種類の母親がいるのか。
この国の「お母さん像」から解放される日

文章を書く仕事をしていると、時々メッセージを受け取ることがある。ある日届いたのはこんな叫びだった。
「私も、世間一般の『母親像』に近づけなくて自己嫌悪に陥ることがあります。今日も夕飯をインスタントラーメンにしてしまいました。もちろん、そんなことインスタには書けません」
そういう人のツールは決まってDMやメールだ。私はそれをありがたく受け取ると同時に、少し悲しくもあった。
やはりTwitterやブログに堂々と「『お母さん』になれません」と書くのははばかられる。だからみんな、DMやメールでこっそりと吐露するのだろう。
私は長年「子育てで充実したお母さん」がマジョリティで「自分らしさを忘れたくないお母さん」がマイノリティだと思い込んでいた。
けれど、もしかするとそうではないのかもしれない。
「子育て=楽しい」「母親=幸せ」
そんな表面上のイメージに塞がれているだけで、蓋を開けるとマジョリティとマイノリティの比率すらひっくり返ってしまうのかもしれない。
「お母さん」になれない人が、私の他にもいるはず。「お母さん」になるのと引き換えに、本来の自分自身を削り取られるような不安を抱えている人が。「お母さん」になることと、自分を大切にすることを両立できずにもがいている人が。
そういう人に知ってほしい。「あなただけじゃない」と知ってほしい。平気な顔をして暮らしている無数の「お母さん」の中に、あなたと同じ苦しみを持っている人が多くいることを知ってほしい。
そして、それがどれだけの救いになるのかということも。
DMでなくとも、匿名でなくとも、私たちは叫んでいいのだ。
いつかこの国の母親が、後ろめたさを捨てて「今日は『お母さん』やーめた」と言って街中で堂々と背伸びできる日が来てほしい。
そのために、私は今日もこうして書いて、生きている。/みくりや佐代子