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day5. 祖母と桜|「星空は、雲を食べたい。」fromソラ

生と死が美しく入り混じる季節

Photo by Sora

3年前、私は祖母を亡くした。両親の次に一緒に過ごした時間が長く、いるのが当たり前だった。祖母がいない人生を過ごした経験はなく、私は祖母の死を受け入れられているのか今でさえ分からない。3年前に止まった思い出を探り出すと、会いたい気持ちが涙となって止まらないからだ。

今年も桜吹雪の中、私は自分の所在があやふやな浮遊感を感じていた。美しく舞い上がる花びらは木から離れて桜が死んだ姿なのに、どんなに散ったとしてもまだ咲き誇っている桜の花々は生に満ち溢れているのだ。「生と死」が美しく入り混じる季節は、人にも終わりと始まりを運んでくる。

春はからっと晴れた日が続き快晴が春を連れてくる。新しい季節が来る度に梅雨や秋雨で空がずっと泣いているのに。「春は特別なのか?」と思ったが、空の代わりに人が泣いてるじゃないかと納得した。出会いと別れで多くの涙が流れる。春も涙雨を降らせていたのだ。

やっぱり新しい季節は雨が連れてくるのだと。「春も同じね」となんだか満足した気持ちになった。

祖母の闘病

Photo by Sora

私が祖母と一緒に生きたのはたったの22年間だ。80歳まで私が生きるとしたら、祖母と生きた時間の4倍に人生が伸びていく。「たった22年間だった」とあまりの短さに気がついたのはついこの間の出来事だった。

祖母の死因は癌だ。亡くなる2年前に癌が発覚して祖母は手術をした。祖母の体力は目に見てわかるほどにどんどん落ちていった。月に一度で一緒にしていた遠出のお買い物もいつしかできなくなって、パッキリとした祖母のお化粧もどんどん薄くなっていく。

そして、手術をして2年後の12月にまた祖母の身体の中に癌がみつかった。そこからはあっという間だった。祖母はまた隣町にある大学病院へ入院したがすぐに地元の病院へ帰ってきた。地元の病院で祖母を出迎えたとき、担架に横たわって運ばれてくる祖母はたった1カ月半の間で半分のほど大きさになっていた。

両親が私に断言しなかったのか、私が信じようとしなかったのかは思い出せないが、どんなに衰弱した姿を見ても祖母が亡くなるとはこれっぽちも思わなかった。きっと元気になってまた一緒に家に帰れると思っていた。

母がイチゴをしぼったものを祖母の口に運んでいた姿をみて思い出したのだが、祖母に2回目の癌が見つかる半年前の夏、私は幼馴染をつれて祖母へ会いに行った。祖母とできなくなった遠出を幼馴染とするようになり、その帰りに寄ったのだ。

もちろんその頃もすでに、祖母はいつも動くのが辛そうだったのだが、とても重くて大きいスイカを切って私たちに出してくれた。私は祖母に幼馴染の話をよくしていたし、祖母も私たちが幼い頃に何度か会っていたので面識はあったのだ。「今はこんな勉強をしているよ」「仕事でこんなことがあったよ」そんな話を祖母を交えてたくさんした。私たちは、たくさん祖母に褒めてもらった。

これからもずっとそうやって話ができると、信じて疑わなかった。

祖母の笑顔

Photo by Sora

地元の病院に帰ってきてベッドの上に横たわっている祖母はほとんど動かなかった。きつい薬のせいで1日のうち意識がはっきりしている時間は少なく、話もままならない状態だった。それでも祖母は、嫌だと思えば拒否をして自分の意思を示した。決して生きるのを諦めていない様子だった。

祖母の「生と死」が入り混じった病室は穏やかな時間が流れていた。母はいつもバタバタと忙しくしていたが、私は祖母に取り付けられた機械の規則的な音に耳を傾けながら祖母の手を握っていた。手だけは昔から知っている祖母のままだった。

卒論の発表も無事におわり、私は東京で住む家を決めに行かなければならなかった。両親は祖母の看病もあり、私は一人で全ての新生活の準備をする必要があった。2月の繁忙期に入る前に家を見つけなさいと両親に言われたのだ。

「東京に行っている数日の間で死んだりしないでよ!」とわざと「死」という言葉を選んで不安を隠して笑った私に、祖母は「死ぬもんかね」って言うような顔でにっこり笑ったのだ。それを見ていた母の顔が驚いていて、それが妙にひっかかったのだが私は背中を押されるように東京へ向かった。

結論から言うと、祖母は私の帰りを待たずに亡くなった。私は祖母の死に目に会えなかったのだ。お互いにお出かけの約束を破り合う中だったのだが、祖母はまた私との約束を破った。

私が見た祖母の最後の顔はお棺に横たわった寝顔ではなく、いたずらそうな笑顔になってしまった。

祖母の旅行

Photo by Sora

私が家についたとき、ちょうど祖母がお骨になって帰ってきたところだった。私が東京にいる間、両親は祖母が亡くなったのを黙っていたのだ。

祖母は骨になってしまった。どこを探してもいない。祖母が使っていたコップも台ふきも、私が高校生のときに祖母にあげたメモ帳も机の上にそのままあった。全部全部そのままなのに、祖母だけがいない。

祭壇を見て泣き叫ぶ私に父はずっと謝っていた。祖母が亡くなったのを私に知らせなかったこと、知らせていたらもしかすると葬儀に間に合っていたかもしれないと父は後悔していた。

私は守られてばかりで、無力だ。遠い都会で一人、祖母の訃報を知らされていたら自分をどう保っていいか分からず、私は動けなくなっていただろう。両親の判断は正しかったのだ。どれほど泣いたのか、どうやって泣き止んだのか、私は49日の間の記憶がほぼ無い。

お仏壇の前に立てられた祭壇には、見たことない祖母の写真が飾られている。私が知っている祖母じゃない。お花、位牌、骨壺を理解できないままずっと眺めていた。

いつものように「ばぁば来たよー!」って叫んだら「はーい!」と声が聞こえてきそうなのに。居間では祖母の定位置だけが空いていて不自然で、私の右側にいつも座っていた祖母を思いながら、何度もその空いた空間に目を凝らした。

初七日の法要を終えたころも祖母が家にいるような感覚は続いていた。7日ごとに行われる法要の際も手を合わせて祖母を想うときも、祖母の存在が微かにあるようなつかみどころのない感覚があった。

でも祖母はずっと家にいるわけではなく、ひょんひょんと色んな場所へ飛び回っているようだった。祖母の声こそ返ってはこないが、今は家にいるな、今はいないなと、私は祖母の所在をずっと探っていた。

49日の間、私は目を閉じれば祖母を感じられ、祖母にたくさん話しかけることができた。

元気ですか?会いたい人には会えましたか?身体が辛くてここ数年行きたくても行けなかったところへ遊びに行っているのかな?

祖母はもう見えない。話もできない。しかし祖母が楽しそうなのだけはわかる49日間だった。

祖母の声

Photo by Sora

7日おきの法要がある生活にも慣れたころ49日を迎えた。祖母の遺骨はお墓に納められて、祖母は三途の川を渡りあっちの世界なのか来世なのかへ行ってしまう。

お葬式に間に合わなかった私にとっては、納骨が初めて祖母と交わす儀式的なお別れだった。

お墓から帰ってきて、片づけられるのを待つ祭壇を見つめた。祖母の骨壺があった場所はぽっかり空いているけれど、その横にも下にも祖母が最期に口にしたイチゴが山積みになっていた。

「お仏壇にあげたものを食べると亡くなった人に届く」という教えを頭の中で巡らせながら、私はイチゴを洗おうとキッチンに立った。

そのときだった。右耳の後ろから「わぁ、美味しそうなねぇ」と、祖母の声が聞こえたのだ。一瞬にして左のお風呂場がある南の海の方へ、祖母は風のように吹いて去っていった。

私はイチゴを持ったまま泣きながら母を呼んだ。母は黙って優しい顔でうなずいてくれた。祖母は最後に、お葬式でお別れができなかった私のところへ会いに来てくれたのだ。

祖母とお別れをして3年が経った今でも、祖母のその声だけは鮮明に思い出せる。元気いっぱいの天真爛漫な祖母の声。大好きだった。私は自分が思うより祖母が大好きだったみたいだ。

今でもやっぱり祖母を想うと泣いてしまう。東京で一人この原稿を書きながら祖母を想う。祖母は、遠く遠く、本当に遠いところへ、でも、確かにいる。そんな感覚がある。

なかなか実家には帰れないけれど、次の帰省のときに墓前の前で報告できることがたくさん増えた。私は元気にやってるよと、たくさん伝えたい話がある。

祖母に2回目の癌が見つかって、遠い病院に入院をした12月、祖母は「桜を見たい」とこぼしていた。祖母はそれを果たせなかったけれど、祖母が見られなかった桜以上の、満開の桜の美しさを祖母に伝えられるように私は桜を目に焼き付けている。

私が東京で盛大に咲いている桜に驚いたことや、桜吹雪の中で舞い散る花びらを掴もうと手を伸ばしたことを「満開の桜話」として祖母に届けてあげられると、今は思えるようになった。

きっと、祖母は喜んでくれる。そう思いながら、私は毎年桜を見上げている。/ソラ

day4. 妄想癖|「星空は、雲を食べたい。」fromソラ

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