
こんにちは。kandouya編集部の森花です。
私の息子(4歳)は軽度の自閉症を持っているのですが、一歩ずつ成長してくれているものの、やはり何かの拍子に不安が高まったり、思うようにいかないことで癇癪を起してしまうことがあります。
こんなことはもう何年も経験していて、今では、だからといって焦ることも、人目を気にすることもずいぶん減ってきました。「人の目なんて気にしていたら、のびのび育てることができない」とも思っています。
さて、今回の編集部会議は、私が章がいを持つ息子を育てていて思う、周囲の人や他人から「あたたかく見守らないでほしい」という気持ち、一見ひねくれ者のようにも見える思いについて、真剣に書いてみたいと思います。
[ad]
障がいを持つ子供の育児、なぜ「あたたかく見守らないでほしい」と思うのか
この「あたたかく見守ってください」というフレーズは、なんだかよく聞くし、よく見かけるなんてことない言葉のように思えます。たとえば芸能人が結婚した時、離婚した時、病気になった時だってそう。もちろんそれは、発達障がいであるとか、大変な状況を持つ人とか、「あたたかい目で見てください」なんて言うと思うんです。
でも、ごく一般市民で、障がいを持つ子供が外で何か予期できない急な癇癪やトラブルになったとき、私は「無関係の人様に迷惑をかけていないかどうか」と気を回すことはしますが、「どうかあたたかく見守ってください」なんて思ったことは一度もないんです。
冷たくてもあたたかくても、どちらでも同じこと
ひとつの大きな理由は、結局のところ「目線そのものがもうプレッシャーである」ということです。それがあたたかいか冷たいか、どちらがいいか?と聞かれればもちろんあたたかい方がいいです。でも、それは周囲の人の心の中の問題であって、結果的には変わらないんですね。
「優しい気持ちで向けられている視線」も「おいおい、うるさいなと思って向けられている視線」も、私にとっては同じプレッシャーであることに変わりはないからなんです。
外出先の飲食店や、買い物のとき、公共の場において障がいを持つ子供の特性が強く出てしまったとき、周囲の人が「全くこちらに目を向けない」というのは、人間ですから無理だと思います。「ん?何か子供がすごく泣いてるな?」と「騒いでるのかな?」と思って見るのは避けることはできません。当然ですよね。
それは、障がいを持つ子供を育てているお母さん、家族は、もう見られる前提として出かけているし十分に理解しているんです。重要なのは「視線のあたたかさ」ではなく、ちらっと見た後は、こちらに注目せずにごく普通に無視してくれたほうがありがたい時も多い、ということなんです。
実は「純粋な善意」で声をかけられるのが一番しんどい
個人的な思いなのですが、一番苦しいのは、「純粋な善意」を見ず知らずの人に向けてもらえた時です。本来ならありがたいし、嬉しいことだというのも分かっています。でも、純粋な善意で「どうしたんですか?」「大丈夫ですか?」と近づいて声をかけられることほどしんどいことはありません。
なぜかというと、その人に対して、どうにもならない障がいという特性だから何もできないことが分かり切っているのに心配されることで物凄く気を遣うし、申し訳ない気持ちになるんですね。
そして「この子は障がいがあるんです」と、今出会ったばかりの人に対しては一言で説明することになり、ただ「障がいだ」という部分だけを切り取ってしまうと、日々の生活の中でそれだけじゃない成長や頑張りを知っている自分としては息子に対してなんだかいたたまれない気持ちになります。
道端で寝転がって大泣きする息子の横で、見ず知らずの人に「せっかく声をかけてくれたのに申しわけありません」と謝ることになる(そういう気持ちになってしまう)ことで、二重に大変な状況になってしまうのです。
それぞれの家庭に、やりやすい対処方法がちゃんとある
障がいや少し育てにくさの強いわが子を持つお母さんや家庭には、その家庭にしかない「こういうときの対処の仕方」というものがちゃんとあります。いや、一般的な、どの家庭だってそうかもしれません。
じっとしていられない子、子供同士のやり取りが苦手な子、癇癪を起してしまう子など色々な子がいると思うのですが、一番「どうすれば早く落ち着くか」ということを知っているのはやっぱり家族なんです。
たとえば私の息子が癇癪になり大泣きをして動かなくなったときは、無理にあやしたり言いくるめることをしても無意味です。むしろ、本人が少し落ち着くのを待って、無理に叱ったり移動を促すよりも、ただ黙って力が抜けてきたときにそっと抱き上げて背中をさすってあげることが一番早く落ち着く対処法なんですね。
この待っている間、周囲の人は「なぜさっさと抱っこしてあげないのか」「こんなに泣いているんだから外に連れて行かないのか」と思うと思います。でも、それが結果的に火に油を注ぐこともあって、もっと泣き叫ぶ可能性が高い。
だからこそ、何か大変そうな親子を見つけたなら、心の中では何を思っていてもいいから、5分でいいです。あたたかく見守ることよりも、何もせずに気にせずに放っておいてくれる方が助かることも多いのです。
強がりではなく、周囲の人には何も求めていない

障がいを持つ子供を連れて出かけることは、それだけでも、出かける前からたくさんのことを想定し、万が一外で何かあったときのために色々な工夫をしています。お母さんや家族は、できる限り人に迷惑をかけないように神経を使いながら、それでも我が子に外での体験や楽しみを感じさせてあげたい、と思っているのです。
そこでうまくいかないことがあったとしても、周囲の人に「理解して優しくしてくれよ」なんて思っていません。そうではなく、わかってもらえないのが当然、冷ややかな目線を向けられることもあって当然、そのことを理解しているんです。
だからこそ、周囲の人には何も求めていないんですね。
「あたたかく見守ってほしい」とも特に思っておらず、むしろ、当然のように行きかう人たちの中にいられることの方が気が楽なのかもしれません。「あたたかく見守って」というのは、本当は「大丈夫だから、放っておいてくれていいですよ」「その方が実はありがたいんです」という意味なのではないかと、私は思っています。
見ず知らずの人が「ああ、何か事情があるんだな」と5分、10分放置する、または無視をする心の余裕を持ってくれるだけで、障がいを持つ子供の育児をしているお母さんや家族は、救われるかもしれません。/kandouya編集部