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自由は存在しない?「自由になりたい」と願うことの意味、自由になるには。

自由なんて本当は存在しないのではないか?

この記事を読もうとしたあなたは今、自由を追い求めてきた結果、自由などないのではないか?と感づいているのではないか。もしくは、自由になりたいと常に思っているのに、そうなれない現実にぶつかり、どこか落胆しているのかもしれない。

自由とはなんだろう、自由になるとはどういうことだろう?

そして「自由になりたい」と人が願うのは、どうしてなのだろう?

いつでも人から「あなたは自由ね」「自由人だね」と言われてきた筆者が思う「自由」について、今回はお話していきたい。

結論:自由とは縛りという居場所のうえにしか存在しない

大空を飛ぶ鳥を見て、人はこう思う。「鳥のように自由になってみたい」と。

気ままにあくびをする猫を見て、人はこう思う。「猫のように自由ならいつでも昼寝ができそうだ」と。

しかし、空がなければ鳥は飛ぶことはできないし、猫は高い場所や潜り込める空間がないと安心して眠れない。自由と聞けば好きな時に好きな事をして、好きな物を食べ、好きに使えるお金があって、煩わしいことなど何一つない世界を思い浮かべるだろう。

でもこうも考えてみて欲しい。

急に裸の状態で、誰もいない世界で、「あなたは今から何をしようが生きようが何もかも自由です。どうぞご勝手に」と神様に言われたとしたら、私たちはきっと身動きすらできない。その時、大きな不安が胸に押し寄せるはずだ。

それなのになぜ、私たちは自由を願う?

私たちが自由を願うその理由、自由とは何か

本当の「無」を経験したことがないから

私たちはまず、この世に生まれた時点でその場所を選ぶことができない。当然だけれど、そこには母がいて、父がいて、兄妹もいるかもしれない。家庭、家族、はじめて目に光が飛び込んできた時から、自由ではないと言える。

そしてそこに対して疑問を感じることはないし、疑問という概念がないままある程度育っていく。

物心がついてくると、自我が芽生える。それは3歳かもしれないし、5歳かもしれない。大人から見れば右も左もしっかりと分かっていない子供にしか見えなくても、自分なりに考えて「なぜ?」「どうして?」を覚えるのだ。

しかしそれは、ママやパパが私たちに「自分の当然の考え」を教えるから、そこに疑問を覚えたり、謎がうまれる。これがはじめからなく1人ぼっちなら、比較する対象がない。自分の思うことがすべてだからだ。

「自由になりたい」と感じるのは、本当の無など経験できないからと言える。

光と影のように、自由と縛りは切り離せない

苦しいことがあるから喜びを感じるのと同じで、縛りがあるから自由になりたいと願う。光がなければ影ができないように、このふたつは常に共存している。

たとえば「何にもとらわれずに生きたい」「好きな事だけをやって生きていきたい」と思うのも、自由になりたいのひとつだ。しかし、それは「何にもとらわれずに生きたい」という縛りをすでに自分の中に持っているとも言える。

だからこそ自由が何倍も素晴らしく見え、その自由に向かって目標を作ることもできる。

「こうでありたい」「こうなりたい」という願いそのものがもう「縛り」であり、その裏面にある自由を同時に願っているのだ。他人に縛られない環境を死に物狂いで築き上げてみても、結局は願っている限り自分自身という縛りがそこにある。

だから自由は存在しない、と言えるのではないだろうか。

自由になるための居場所=縛り

筆者は「自由人」という言葉をよく人にかけられる。それに対して不快感など特にない。でも、自分で自分を自由だと思ったことは実は一度もない。それと同時に、一般的に見て自由のように見える人に対しても「あの人は自由なんだろう」と思ったことはない。

しかし縛りというものは感じている。それは本当は関わりたくなくても接する必要のある少し気の合わない人間関係や、どうしたって融通の利かないこと、理想通りにはいかない状況だったりする。

それでも少し違うのは、「縛り」という言葉にマイナスのイメージを抱いていないことだ。

私にとって縛りとは居場所であり、愛する人、生きていくうえで守るべき存在でもある。いつもそばに縛りという名の憎らしくも愛おしい存在がいて、限られた時間の中を生きているからこそ、たまには自由になりたいと願い、その喜びを感じられるのだ。

もし私が本当の孤独だったら、自分を求めてくれる存在がいなかったら、自由と言われても何をしていいか分からないし、好きなことをしていても楽しくないだろう。縛りは自分がここにいる意味を与えてくれるホームであり、自由というのは時々つまみ食いしたくなる甘いクッキーのようなものなのだ。

自由になりたいなら、心に血を通わせるといい

人間は時々、身体だけではなく心にもしっかり血を通わせる必要があることを忘れてしまう。たとえば社会でのストレス、家庭でうまくいかないこと、恋、悩み……身体的な自由(時間、環境、状況)は求めるのに、なぜかしっくりこないことがある。

たとえば生まれたばかりのとき、赤ちゃんであった頃の私たちは、心だけは自由だったはずだ。無知だからこそ、母親がどんなに眠れなくてもお腹が空いたと泣き、寂しいと甘え、急に糸が切れたように眠ったりしていた。

それが年齢を重ね時間を重ねると共に、心に嘘をつくことを覚える。

気が付けば思ってもいないことを口にしていたり、楽しくもないのに他人に合わせ、本心のあり処を見失ったりもする。

「心の内」のことは、いつだってどんな人だって自由だ。

よく心の内、外というが、この心の内に関してだけ言えば、誰でも自由であると言える。

縛りがあるうえで自由を感じられる人は、この心の内、つまり誰も知らない部分に関して嘘をついていない人の事だ。「だめだめ、こんな風に思っちゃいけない」「こんな風に考えているなんて、自分って人と違うんだろうか?」……なんて否定することが多い人は、いくら会社をやめても、逃避行をしても、自由にはなれない。

あなたが何かや誰かを嫌いだと思ったのなら、嫌いで構わない。自分でも信じられないくらい汚い感情や言葉が心に浮かんでも、それでも構わない。心の中の事は結局誰にもわからないし、100%言い当てることなどできないからだ。

まずは自分の心の内をすべて正直に受け入れる。汚い人間だろうが腹黒いと思われようがそんなことは関係ないのだ。誰かに透視能力でもない限り、あなたのその心の内の自由は覗かれることもないし、否定などできない。

他人から逃れ自由を得ると、自分に縛られる

筆者は他人に自分を制御されるのが嫌いだった。尊敬できない人に対して敬意を払わなければならない現状を変えたかった。社会に揉まれ、たくさんの経験をして、第一に逃れたのは「誰かに雇われながら働くこと」だった。

確かに自由を手にしたが、同時に今度は自分という人間の意思や感情にも縛られている。やはり完全なる自由など存在しないし、居場所を作ろうとする本能が人間には備わっているのだ。

そしてたくさんの人と出会い、その都度たくさんの人の思いに触れてみるたびに、どの環境のどんな人も、縛りに守られて自由を目指している、そんな答えにたどり着いた。どんなに自由になったと思っても、今度はそのステージで別の苦悩や葛藤が生まれ、そこに反発する人や受け入れてくれる人がいるから、常に自由を求める。

だから本当は、自由になりたいのではなく、自由なのでもなく、その時最大限に自分の意思に沿えるようもがいているということだ。それを私は「自由に生きている」と呼ぶのだろう。

自由は存在しないが、心に従って自由を求め続ける。

自由と縛りは表裏一体で、何かもない状態で野放しにされたら、人は生きている意味を見失う。ないものねだりのように、何にも縛られなくなったら、今度は何かに縛られようとするはずだ。

あなたが今「自由になりたいのに、自由など存在しないではないか」と思っているなら、それもまた正解である。「それでも自由にどうしてもなりたい」と思っているなら、その心を信じて前に進むだけだ。

しかし忘れないでほしいのは、自由になりたいと感じた時、少し振り返って背中側の道や足元を確認してほしい。あなたが自由を求めたくなる原点となった居場所が、今でもかならずあなたを見守っているだろう。

その縛りや窮屈な環境が、あなたをいずれ羽ばたかせるための足場になっている。そしてそれを知らぬ間に足で踏みつぶしているかもしれない。大切なモノはきっと、捨てたいと願った縛りの中にもひっそりと生きている。

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