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波風の立つ人生を、本当は望んでいる「弱い心」

なぜ、人生には波風が立つのだろう。

人生には、波風が立つ。「ここまでやっとの思いで走ってきた。もう大丈夫」そう思っても、また波風が立つ。自分の弱さに絶望して、生きるのも嫌になって、どうにかこうにか乗り越えたはずなのに、また波風が立つ。

そのたびに、私はこう思う。「ああ、私の人生、まだまだ終わりじゃないってことだ」と。

もちろん、平穏な人の人生がもう終わりだと言っているわけではない。だけど「平穏なんだ」と静かに微笑んでいる人を見ると、「きっとこの人はたくさんの波風を超えてきたんだろうな」と感じるんだ。ほら、田んぼの脇で小さなレジャー用の椅子を広げて、何をするわけでもなくじっと季節を感じているおばあちゃんを見ている時の、気持ちと似ている。

平穏を望んでいるように見えて、実は違う

口では「平穏な人生を送りたい」と言っている人は多い。でも、気が付けばいつの間にか、無意識のうちに自分で自分を荒波に放り込んできたということはないだろうか。「どうして苦しい道ばかり選ぶの」と言われたことはないだろうか。

大人になって気づいたのは、本当は平穏な日々が来るのが怖かったのだ。臆病者の私。「平和だな」とか「幸せだな」とか、なんの問題もない日常を望んでいながらも、「幸せがくるのが怖い」と思っている自分もいる。

理由はわかっている。「幸せになると、壊れるのが怖くなるから」だ。

平穏より怖いものは「無」

素直に人を信じればいいと思う。「好き」と言ってくれる人を信じて、それがなくなった時のことなんて、考えない人になりたかった。信じていれば楽なのに、わざわざ疑って、確かめようとして、確かめたところで答えなどなくて。

ずっとわからなかった、人生の波風の原因は、自分自身の心の問題だったんだ。私は平穏を望んでいるのではなく、「無」になりたくないと自分を追い込んでいた。その根本的な思いが、つらいと分かっていながらも、常に荒波に向かっている理由だ。

運命では片づけられない

人はすぐに物事を省略したがる。一言に集約しようとして、人の人生を「苦労」「波乱万丈」なんて呼びたがる。そして最終的には「運命の仕業」だと納得させようとする。生まれた時から決まっていたことのように、自分の意思ではどうにもできないかのように。

「これが私の運命だから、もうどうしようもない」と思うことで、苦しかったこと、悲しかったことに蓋をして、あとは神様が許してくれるのを待つのだろうか。本当は運命だからとか、そんなことが聞きたいのではなく、これまでのことを聞いて、認めて「よく頑張ったね」「これからは1人じゃないよ」と言って欲しいのではないですか?

人生に波風が立つのは、自分を許していないから

他人のことを許すことはできる。でも、自分の事を「もういいよ」と心から許してあげることができない。幸せを感じる自分を、許してあげることができない。幸せの小さい大きいは関係ないんだ。「最高の状態」になってしまえばあとは「落ちていくだけ」「あとは失くしていくだけ」と、未来を怖がる自分を許してあげることができない。

それでも、今こうして生きている。

時々生きていることや、人生についてわからなくなったり、わかったりしながら、目の前の壁を乗り越えている。それは、運命でもなく他人のせいでもなく、自分自身で作り出した壁を乗り越えようと必死に今を生きている。戦っているのは、どんな時も「誰か」ではない。本当は自分なんだと、もう気づいている。

苦しい時は、心の声に耳を傾ける

人生には、波風が立つ。愛する人がいなくなっても、目的を見失っても、乗り越えることができる。すぐには強くなれない。強くなる方法なんてわからない。それでも、たった1㎝の強さを積み重ねて、確実に強くなっていける。

なぜ乗り越えることができると言えるのか。答えは「自分で望んだ波風」だからだ。きっかけは誰かと関わることかもしれないけれど、そこで受けて立っているのは私。それが、自分の人生なんだ。

どうしても苦しくなったら、心の声に耳を傾ける。少しだけ「それでもいいか」を増やしてみる。いつか自分を本当に許してあげられる日が来るまで。/kandouya編集部

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