kandouya

ネガティブ/マイノリティ専用WEBマガジン

【生きるのがつらい】「死にたい」より「消えたい」の方が重症。誰にも相談できない人へ

死にたいと思ったことと、消えたいと思ったことがある。

あー死にたい。もう消えたい。

表面的な言葉の重さとは裏腹に、案外かんたんに口にする言葉かもしれない。

でも「死にたい」と「消えたい」って、全然違うんだ。実際は、死にたいより「消えたい」の方が重い。そして、自分はなんのために死ぬのかって、少し考えてみてほしい。

「死にたい」は存在証明

10代中盤ごろ、死にたいとよく思った。死ぬって何なのかわからないまま、自傷行為を繰り返した。

10代の頃の「死にたい」には、私が確かにここに生きていたことや、死んでしまうくらいの悲しみを感じていたということを、誰かに知って欲しいという思いからきていた。

ここにいても、いないのと同じような感じ。生きているんだから、大丈夫でしょ。生きているんだから、恵まれているでしょう。生きてさえいれば。誰の声ともつかない声が、よく聞こえた。

生は尊ぶべきものなのに、むしろ生きていることで、 生きていることがぼやけるのだ。

いじめにあった中学生が自殺をするのはなぜか。それは「悲しみを証明したいから」だ。何かから逃げたいわけでもない、楽になりたいからでもない。死んだらどうなるのかなんて誰も知らないし、自殺なんてしようものならもっとひどい地獄に送られるおそれだってある。そういう言い伝えはいくらでもある。

それでも「死ぬ」ということに惹かれるのは、今ここに自分が存在しているということを証明する方法が、死ぬことしかないからだ。

大人になってからの「消えたい」は抹消

大人になってからも、私は死にたいと思うことがあった。でも、大人になってからは「死にたい」ではなく「消えたい」という感覚の方が近かった。

「消えたい」というのは、自分の体がこのまま消えてなくなり、さらに自分に関わる全ての人の記憶からも、自分を消してほしいという気持ちだ。

朝起きたら家族は、私が寝ていた布団を見て「なんでこんなところに布団が敷いてあるんだ?」と不審に思うだけで、私がいないということには気づかない。私という人間を、最初から知らないのだから。それが理想だった。

誰にも迷惑をかけず、最初から自分なんかいなかったかのように。私という人間のことを、誰も思い返さない。悲しんでも、悔やんでもほしくない。この世のすべての自分のデータを消して、他の人たちには日常をいつも通りに進めてほしい。黒歴史なんて言葉があるけれど、そんなの自分の人生全部だよって何度思ったことか。

この「死にたい」と「消えたい」の違いは、とても大きいと思う。

10代の頃は、死ぬこと自体も自分のためだった。悔しさ、怒り、存在証明……。 そういった、強い衝動と怒りがある。

しかし、大人になってからの「消えたい」は、本当にか細い訴えだ。行き止まりにぶち当たって、進むことも戻ることもできない。責任を全うすること、人と関わりをもったこと、自分という人間が少しでも規模を広げたことによって、下手に周囲へ影響してしまった。取り返しがつかないとさえ感じることもあった。こんな自分が、ここまで生きてきて申し訳ないという気持ちさえする。

それに、自分が死んでから、誰が、何を、どのように処理するかも知ってしまった。人が死ぬとき、どんな手続きがあるのか。今抱えている仕事や家庭をどうするか。自死すると、どういう顔になるとか、排泄物が出るとか、発見が遅れるとどうなるか。いろんな「死」にまつわる事実、リアルを知ってしまった。

だから、成長すると人は「死にたい」ではなく「消えたい」と思うのだ。

大人になってからは「自分なんかが今死んだら、迷惑極まりない」と思うようになった。 ときどき消えたくなって、自意識の殻に入り込んでいたけど「私が死ぬと周りの迷惑になるから、とりあえず明日だけ頑張ろう」と思った。消えたいのは本望だけど、それはあまりにも非現実的なオカルト現象になってしまうと、冷静な大人の思考がそれを阻止するのだ。

泡になって消えたい。空気だったらいいのに。透明になりたい。頑張るってなんなんだよって思うよ。完全に死ぬタイミングを間違ったなと、20代そこそこのころは思っていた。

死んだ人は「弱い人」にされる

どんなひどい状況にあったとしても、自分から死を選ぶということで「弱い人」という印象を、最後の最後に張られてしまうこともある。

「どことなく、弱い感じの人だったもんね……」自死した人の話を聞き、そんな風に、勝手に無理やり関連付けてしまう人もいる。

自殺願望も、死にたい、消えたいと思うことも、全部最後は「その人自身の弱さ」のせいになる。私は自分の存在証明を成し得なかったことに対して、むしろ「死ねなかった弱さ」を感じたりもする。強さを証明するために死ぬのは道徳的にはおかしいけれど、いろんな事情に耐え続けた人がなぜ弱い人になるのか、理解不能である。

死んだからって、理解されるわけじゃない

自分の命をもってつらさを訴えても、おそらく理解されるわけではないと思う。「死んだ」という事実なんて、すぐに忘れるからだ。

どんなえらい人も「生きているだけで、ありがたいことなんですよ」「命は尊いものなのです」そう言うと思う。死んだ人を「かわいそう」「残念」「こんなことがあってはならない!」と騒ぐ。その人はさっきまで生きていた人だ。死という一線を越えるだけで、捉え方がこんなにも変わってしまうなんて。

目の前の人を大切にしない、ものごとをしっかり見据えない人ほど、人の死に敏感に反応し、言葉にする。すぐに「かわいそう」「ひどい」「残酷」「ありえない」と言葉を並べる。そこに至ったまでの経緯を知らないで、軽々しく死を語る。

死ぬ前日まではぞんざいに扱い、死んだ日は気が動転して悲しんだポーズをとるんだろう。心臓が止まるという、ただのその一線だけで。人がそこにいることは、何も変わらないのに。

そんな人がほとんどだ。そんな人たちに向かって「死をもって存在証明する」のは、ほとんど意味がないなぁと、今大人になってしばらくたってみて思うんだ。

そんなことのために死ななくてよかったよ。あんたがあのとき死んでも、周りは今頃パフェでも食ってるよって、本気で思うんだ。

死にたいも、消えたいも、最適じゃない。悔しいけど、明日も生きるしかない。

悔しいなぁ。

あなたは明日もまた、生きなくてはいけない。理不尽に耐えながら、複雑すぎて説明もできない心を抱えながら、普通の顔をして、平凡なふりをして生きなければいけないんだろうな。生や死に何の疑問も持たないで生きられる人が羨ましい。妬ましい。何で同じ人間なのにって、思わずにはいられない。

それでもいいと思う。だって苦しいもん。死にたいのも消えたいのも生きたいのも。そんな気持ち抱えながら生きるのはつらくて当たり前なんだ。

でも、どのみち私たちの思惑通りにはいかない。死んでも思いは届かない。消えるのは、現実的に難しい。だから結局、なんとかして生きるしかないのかもしれない。そうやって生きてきた人が実は、世の中にはたくさんいるのだ。/Kandouya編集部

さなぎが蝶になるように…過去の嫌な思い出を忘れる方法とは?

トラウマとはいったい何?克服方法と消えない記憶の扱い方

「憎しみが消えない…」許せなくてもいいよ。忘れられない過去がつらいあなたへ

ふいに襲ってくる自己嫌悪。自分の過去を消したいと思ってしまう時に考えたいこと

 

おすすめ書籍《トラウマ・HSP・アダルトチルドレン》

スポンサーリンク

Return Top