
普段の生活の中で「自分はどうすべきなのか」「どうすれば自分は成長できるか」なんて考えることはありませんか?
マイナス思考になりやすい人、悩みやすい人は、一見暗くてネガティブなように見えますが「なんとか成長したい」「このままの自分では嫌だな」と思っていることが多いと思うんです。
そこですごく大事になるのは「ありたい」と「すべき」をわける考え方です。
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「べき思考」とは何?

べき思考とは「〇〇すべき」という固定観念的な考え方のことです。
- いつもポジティブでいるべき
- 常に笑顔でいるべき
- 人に優しくすべき
- 少しくらいのことはがまんすべき
- 要領よくやるべき
人が生きている日常の中には、本当に数えきれないほどの「べき思考」が生まれています。
筆者自身、この「べき思考」をどのくらいやっているかを意識し始めると、正直5分に1回はべき思考で動いているんじゃないか!? と思うこともあるくらい。
生きづらさを抱えている人や、なんだか人間関係や人生が上手くいかないという人は、このべき思考に縛られてしまっていることがとても多いと感じます。
べき思考になってしまう原因は?

○○しなきゃ、○○じゃないと……。この考え方はどこで培われてしまったのでしょうか。
ちょっと筆者の実体験を例にとってみますね。
私は、成人してからというもの「〇〇じゃないとダメ」という固定観念の多さに自分でもドン引きしています。周囲の人にも「もっと方の力抜いたほうがいいよ」とか「もっと素で接してくれたらいいのに」と言われることも多いんですね。
そして、私はだんだんとべき思考を手放せるようになってきました。
すると今度は、自分の親と話していて、親がかなりのべき思考で話をしていることに気づき始めたのです。さらに自分と親の過去のやり取りや、親に教えられたことを遡って考えてみると、ほとんどが「べき思考」による教育だったことも見えてきました。
もちろん、親の教えがすべてとは思いません。しかし、親が子どもに「〇〇でなければダメ」という教育をしてしまうということは、親自身もまたべき思考で生きているわけです。すると、子どもが親の姿を見て自発的に学ぶこともまた「べき思考」なんです。
べきべきべき!しなきゃしなきゃ!
そんな中で育ってきた人は、非常に多いです。今でこそ、時代が少しずつ自由で開放的になりつつありますが、まだまだべき思考に縛られてしまっている人がたくさんいます。また、自分の人生の選択を「〇〇すべき」で決めていることに、まったく気づいていない人もまた多いです。
べき思考をやめるには「ありたい」と「すべき」をわける

べき思考は、幼少期から培われている場合が多いので、やめたいと思ってもなかなか抜け出せないものです。また、自分がどのくらいべき思考で動いているかも、自覚できていないことがあります。
そこで、順を追って自分の心の声に従っていく方法を考えてみましょう。
自分に「なんで?」を問いかけてみる
何かを迷ったとき、悩みにぶち当たったとき、不安なときなど、いろいろな悩みに関して「なんで自分はそれをやるのか?」ということを考えてみるクセをつけてみましょう。
たとえば、よくある人間関係を例にとってみますね。
「嫌いな人がいて、ストレスが溜まる」という悩みがあったとします。私自身、少し前までは「嫌いでも、優しく愛想よく接しなくてはいけない」と思っていました。
そこで「なんで嫌いな人のことで悩んでいるのか?」と自分に問いかけてみるんです。
すると私は、嫌いな人がいても、自分の意見をバシッとぶつけたり、拒絶したりすることもできない……。この「嫌い」と「傷つけたくない」の間で動いているからつらいんだということに気づきます。
「嫌だ」と思う気持ちと「相手を傷つけたくない」という気持ちが共存していて、どっちに従えばいいかわからないのです。
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「こうありたい」という自分像も大事にする
この例で言えば
- 嫌いな人には「嫌い!」とはっきり言うことも大事
- 自分の思いをそのままストレートに伝えたほうが楽になる
という意見を見聞きすることが多いです。
でも、ビシッと自分の気持ちを表現することできないから悩んでいるのではないでしょうか。
相手が嫌いということよりも、嫌いなことをどうやって伝えたらいいかわからなかったり、相手を傷つけずに切り抜ける方法を知りたくて悩んでいたりするんですよね。
「相手がどんな人であれ、相手に嫌な思いをさせる自分でいたくない!」みたいな気持ちもあるんです。
人を傷つけるのはよくないことだから、自分の正直な気持ちをはっきり言えないのではない。
そういう自分になりたくないから、素直な表現や自由な発言ができない。こんなケースもあると思います。
「それは自分の弱さを守っているだけ」なんて言われることもあります。でも私としては「それの何がいけないの?」とも思うわけです。弱い自分を守れるのは自分だけです。守っていたって、いいじゃないですか。
私は、人を傷つけるよりも傷つくほうがいいなって、最近思うんです。ちょっとずつではあるけれど、多少鍛えられて強くなってきているし、それを世間的な「こうあるべき」で変えようとしても、変わらないんですよね。
「本気で変わりたい」のか「変わる必要がないから、変えられない」なのかを、じっくり見てみることなども必要かもしれません。
「こんな自分でいたい」という理想もあっていい

最近「もっと自由に生きよう」とか「わがままになっていい」という、開放的な考え方が広まってきています。働き方や女性の人権、教育などのさまざまな面で「自由になろう」という声が高まっているように思うんです。
でも「社会的にはそうだけど、自分はどうしてもそうなれない」というところで、さらに苦しんでしまう人も多いと思うのです。
周囲の声や、一般論は常に変化しているし、人によって違います。一見新しい考え方や、発見のような概念も「自分にとって合わない」ということは往々にしてあるのです。
どんなに画期的な考え方だと思ったとしても、一度立ち止まって「自分は、そうありたいのか?」ということをゆっくり考えてみるといいですね。
べき思考と「こうありたい自分像」は、似ているようですが、実は大きく違うと感じています。
「どんな自分でもいい」と考えて、べき思考をやめる

悩んでいる自分を「悩んではいけない」「もっと楽観的になるべき」としてしまうこともあります。
どんな場面にも「べき思考」はくっついて回るものなんですね。
だからこそ「どんな自分でありたいか」というのを、考えてみる時間をつくってみてください。
なんだかんだ言っても、結局こういうことをしちゃう自分。浮き沈みの激しい自分。考え過ぎて疲れてしまう自分。
そんないろんな「ダメな自分」が、もし全部正反対だったらどうでしょうか?
たぶん「自分らしくない」とか「なんかしっくりこない」という違和感が出てくることもあるはずです。
どんなことも「そうあるべき」ではなくて「そうありたい」で決める。世間の動きも風潮も、周囲の声も関係ないんです。どんな自分でもいいんです。
そして、すぐに決めないでじっくり観察してみることが、どんな場面においても大事だと私は考えています。/Kandouya編集部
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