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無意識に「演じてしまう」のはなぜ?キャラを作ることに疲れた人へ

日常生活を生きていて「何者かを演じている」と感じ、疲れやストレスをため続けていたことがあります。

どんな人にも、表向きの自分と素の自分というものがあるはずです。しかし、両者のギャップがとても大きい場合や、いくつものキャラや役割を、無意識のうちに使い分けてしまうと、ただ普通に生きているだけでもものすごくしんどくなってしまいますね。

私自身、自分の中にいくつものキャラあったり、むしろ付き合う人ごとに自分を変えたりしてしまう自分に悩んでいたことがあります。人に合わせるのが得意、その場の状況に適した振舞いができる……裏を返せばそのような長所なのかもしれません。

でも、それって本当に必要なことなのか……。果たして、どれが本当の自分なのか……。素の自分ってなんだろう?と疑問に思うようにもなっていました。

この記事では、キャラを演じることや自分を偽ることをやめるために、本当に大事なファーストステップについて、実体験を踏まえてお話していきます。

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何者かのキャラを演じることは、おかしいことではない

私は「誰しもが、何らかのキャラクターを演じながら生きている」と考えています。どの場面でも、同じ自分でいるというのはなかなか難しいものですし、TPOを弁えて振舞いや言葉遣い、発言や意見を変えることは普通にあることだと思っているのです。

私自身、家族の前での自分と、育ててもらった両親の前での自分、子どもの親として人前に出るときの自分、またこうして仕事や個人的発信をするときの自分……いろいろな自分があるということを自覚しています。

それぞれに役割があり、その状況やそこにいる人たちによって自分を常に変化させながら生活しています。

ただ、その役割や使い分けを細かくしすぎてしまうことが多かったのです。人に合わせることや、場の空気を壊さないこと、相手に心地よくいてほしい……というような「自分より他人を優先する」「自分は人に合わせるべき立場の人間」というような考え方や感覚的なものが、そうさせていたのかもしれません。

役割を担うことで、生きる方法を模索してきた

誰しもが幼いころから「自分の役割」や「キャラ」といったものを無意識のうちに模索し、実践しながら生きてきたと思います。極端な例を出せば「アダルトチルドレン」という概念ですね。

家庭の中で何らかの役割をもちながら生き、子どもとして、子どもらしい振舞いや欲求を満たすことができないまま大人になったひとのことを、アダルトチルドレンといいます。有名な精神科医の斉藤学先生によれば、アダルトチルドレンでない人は、今の世の中にはいないとまで言われている。それくらいに、私たちが何らかの役割やキャラを演じることは当たり前なのです。

それは、何とか自分なりに「上手く生きようと模索してきた結果」なのではないでしょうか。

社会的な役割は誰にでもある

この社会で生きていれば、社会的な役割が必ずうまれてきます。

私の場合で言えば……

  • 保護者
  • 誰かの友人
  • ライター、文章作家
  • 自分自身

少なくともこのくらいは社会的立場があります。

私という人間の中に、いくつもの役割とキャラがある。これは人間が社会で生きる上で当たり前に行われるわけですが、それが細かすぎたり過剰になったりすることで「なんか疲れる」「理由のわからない生きづらさ」のようなものを感じるようになるのではないかと思っています。

演じることが過剰になると、精神的に苦しくなる

誰しもキャラを演じながら、微妙に使い分けながら生きているわけですが、私のように演じ方が過剰になってしまう人も少なくないと思います。

自分の感じることをそのまま出すと、人は私を嫌うのではないか。よい人間、優れた人間を演じなければ価値がないのではないか。自分という人間はとても劣っているから、できるだけ立派に見せて、社会でうまく生きなければいけない。

私の場合「そのままの自分には価値がない」という感覚、そして「自分の意見や感性は間違っている」という自己肯定感の低さが、過剰にキャラを演じてしまったり、自分を取り繕ってしまったりすることの根本的な原因だったと思います。

「自分を偽っている」「取り繕っている」という罪悪感は捨てて

私がまずいちばん大事だと思うのは、いろいろな演じ分けをしてしまう自分を責めてはいけないということです。

取り繕うこと、演じることを「自分を偽っている」「本当の自分を隠している」という悪い見方でジャッジしてはいけません。一般的には「ありのままの自分でいこうよ」とか「いくら取り繕っても見抜かれてしまうよ」というような意見もよく聞かれるんですよね。

でも、そんなことはわかっている。自分だって、このままでいいなんて思っていないんですよ。だから苦しんでいるわけですよね。

自分を責めることや罪悪感がもっとも厄介

私は自分の中に複数の人格がいるような感覚があり、実際に日常生活では細かく使い分けをしていましたが、そんな自分に罪悪感を抱いているときがいちばんしんどかったです。

誰と接していても、何をしていても「私は本当はこういう人間ではない」という、うしろめたさがあったのです。特に、母親業ではいつも素の自分を隠して立派な母親である自分や、女性らしく誰から見ても平均的な「お母さん」に見えるようにふるまっていたところがありました。これはかなりきつかったです。

また、仕事やこうした発信活動をする中でも「求められている自分」や「人にいいと評価される自分」を演じてしまうこともあります。これもかなりきつかった。誰しもが多少なりとも 役割やキャラの演じ分けをしているわけですが、それをさらに自分で責めたり罪悪感をもったりすることからまず、やめる必要があると私は考えています。

「そのままの自分」でいることもまた、演じること

次にやってくる試練は「そのままの自分」「ありのままの自分」を模索しだすこと。

私は「ありのままの自分って何……」と途方に暮れてしまってしんどい時期も長かったです。いつも人に合わせたり、その場の役割を自分から買って出てしまうので、自分のままでいようと思ってもそれが何なのかイマイチわからないわけですね。

おそらく、自分ひとりで過ごしているときの自分がありのままの自分に一番近いんですが、これも正直あまり当てになりません。人はそのときどきで違う環境、心境、体調、気分があります。常に一定の状態でいる人などいなくて、そのときの自分はそのときしかいない。「今ここ」に意識をむけるというのはそういう意味で、決して常に一定の自分があるわけではないのです。

「自分らしくいよう」と思うこともまた、役割やキャラを演じることと同じなんですね。だから、自分のままでいようと無理に気負うことは逆効果になるのかもなって、思っています。

キャラを演じてしまうことに悩んだら「どんな自分でもいい」と意識する

キャラを演じてしまうこと、使い分けしてしまう、二面性があることなど、それらは言ってみればあなたが生きてきた経験上必要なことであり、自然なことなのかもしれません。そうしなければ、生きてこれなかった。やってこれなかった、ということでもあるんです。

だからこそ、演じる自分やキャラ設定をしてしまうことを否定しないでほしいです。「ありのままの姿見せるのよ~♪」ってのも、一見いい言葉のようですが、捉え方を間違えると逆に自分を苦しめてしまう言葉でもありますね。

ありのままというのは、本当の自分という意味ではなくて「どんな自分でもいい」ということなんですね。そこをまずは認めてあげないと、常に自分軸で生きるとか、自分らしさを出すといったことはできないと考えています。

今感じていることを、ちゃんと認めていきましょう。否定しない、どんな悪い自分も、どんなにダメな自分もそれでOKとすること。それがクリアできればきっと、次の段階である「自分軸」という生き方に自然と移行できることもあるのです。/夏野 新

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