
「この人、顔は笑っているけど本当はどう思っているんだろう」
「自分によくしてくれるけれど、本当は重荷に感じているんじゃないかな……」
誰かと接していても、常にこのような疑いの気持ちが湧いてきてしまうことがあります。
相手が、仲の良い友人でも、家族でも、子どもでも、誰に対してもそう。
よく「信用できる人を見つけよう」とか「嫌われることを怖がらないで」とか、そういう指南を聞く機会はとても多いです。
でも、なんとなくそういう言葉に対して上手く飲み込めない、かみ砕けないような気持がしていました。
どんな自分でも見せられる人を見つけられたら、いいに決まっています。
でも、どんなに優しい人や理解しようとしてくれる人に出会っても、ありのままの自分を見せることはできないのです。
思えば筆者は、人が怖いとか、信用できないという感覚は、誰とも関りをもたないで一匹狼で暮らしているような人を連想していました。
自分は人と一緒に暮らし、人の中で生活しているのだから、大丈夫。恵まれているじゃないか。怖いとか、信用できないなんて自己憐憫だ。そんな風に自分に言い聞かせていた部分もあったと思います。
しかし、実際は「人に囲まれているのにも関わらず、すべての人に疑いの目を向けている」というのが、人間不信のつらさの神髄だと思うのです。
この記事では、人が怖い・人を信用できない人が、そんな自分をどう捉えていけばよいかを考えてみたいと思います。
人が怖い・人を信じられないって、どういう感覚なの?
ここで言う「人が怖い」というのは、人に近づくこともできないとか、誰とも関りをもたないで暮らしているということではありません。
どんなにたくさんの人に囲まれていても、完全に心を開く相手がひとりもいないということ。
感じたことを感じたままに言うことができない。本当のことを言うより先に「何を言うべきか」「どう振舞うべきか」のほうが重要であると感じてしまいます。
筆者自身も、自分のすべてを見せられる人はいません。たとえそれが人生を共にするパートナーであっても、親友と呼べるような存在であってもです。
常に「表層の自分」と「深層の自分」がいます。
もしかすると、人を信用できる人は「この人には何を言っても大丈夫」という安心感があるのかもしれません。思ったことや事実、聞いて欲しい話を、割と気軽にできる間柄という感じでしょうか。
交渉や提案、お願いなども、必要に応じてスムーズにできる。それは確かにすてきですし、そうなりたい。でも、私たちはそれをするのに、多大な労力と意思決定と検討を繰り返します。一般的な人の、倍以上の時間と労力をかけているのだと思います。
人を信用できないというのは、相手のことを大切だと思っていないわけではありません。
本当のことを言ったり、自分を出したりすると嫌われて離れていってしまうかもしれないという怖さがある。大変な失敗につながるのではないか、という怖さもある。
だからこそ、本当に大事な人にこそ、心の深いところに眠っている感情を言えないという悪循環に陥ってしまっていることもあります。
人が怖い原因は?人を信じられない理由とは

人が怖い、信用できないという感覚をもっているのは、正直言ってしんどいです。毎日、疑ったり探ったり、あれこれ思考して、頭がヘトヘトになります。
常に神経が張り詰めていて「どこからどこまでの自分を公開するか」という計算が行われ続け続けているような感覚。以前はそれが当たり前だったのですが、最近その疲労感や恐怖心にはっきりと気付くようになったのです。そして、もう少し負担なく暮らすために、何とかしたいと思うようになりました。
私には思い当たる傾向がいくつかあります。
最初に断っておきたいのですが、原因を特定することは、もっとも大事なことではなくあくまでも自己理解のひとつの方法に過ぎません。
幼少期の体験・アダルトチルドレン
人を信じられないのは、幼少期の愛されなかった体験やアダルトチルドレンであることに原因がある可能性も大きいです。もっとも一般的にいわれる原因であり、何らかのトラウマ体験や満たされなかった思いが今の「人への不信感」になるのは当然のことともいえます。
たとえば幼いときに、自分の気持ちを話したときに否定されたり、怒鳴られたり、けなされたりするようなはっきりした体験があると、人を信用しにくくなります。
ときどきではなく「常にそうだった」「受け入れられた感覚を思い出せない」というようであれば、昔からずっとその感覚を握りしめて生きてきたのかもしれません。
ただ、子どもの頃のことはもう確かめることができません。幼少期のころの体験について親に確認したり、昔の話として中立的な対話ができれば理想的ですが、それができることは稀なことではないかと感じます。
ですから「親の何が悪かったか?」「どういう接し方に問題があるのか?」を深堀しすぎるのではなく「受け止められたことがなかった・少なかった」「否定されたり批判されたことが多かったな」と、自分で納得するだけでいいと思います。
恐怖心の強い気質
もともと持っている特性として「恐怖心の強い気質」というのもあります。
昨今話題になっているHSPや、発達の傾向によっては感受性が強すぎて、ささいなことにも恐怖や不安を感じ、その感覚を増幅させてしまう傾向のある人もたくさんいます。
さらに、そうした自分の中でしかわからない感覚の個性は、周囲からは見えません。
親や先生などの周りの大人から理解されなかったり、弱いと指摘されてしまったりするという体験が、そこにさらに積み重なって二次障害的に怖さや不信感が強まることもあります。
もともと感受性が強い人は、人に対して疑心暗鬼になって当然だという考え方をするのも一つの方法ではないでしょうか。
警戒心が強く危機管理能力が高い
前項の「恐怖心が強い気質」とも通じますが、警戒心が強いというのも、もともと持っている気質と関係がある場合もあります。
同じ子どもでも、目に飛び込んできたものに一目散で駆け寄っていく子もいれば、警戒して親と一緒でないと対象物に近づけない子もいます。
人の輪の中にどんどん入っていける子もいれば、人見知りで大泣きしてしまう子もいるのです。
こういったことも、今となっては確認できない場合も多いので「原因はコレ」と断定する必要はありません。あくまでも、自分は子どもの頃どんな性格だったかなと思い出したときに「どちらかといえば、引っ込み思案だったな」となんとなく思い出せれば、その道筋で考えてみればいいと思います。
警戒心が強い人は「何か危険なことがあるかもしれない」という危機管理能力に長けていると捉えることができます。石橋をたたいて渡るのは決して悪いことではありませんし、そうした経験を積んできたからこそ得るものもあるはずです。
白黒はっきり思考
白黒ハッキリさせたい性格も、日本人には比較的多い印象を受けます。
- 大好きか、大嫌いか
- いい人か、悪い人か
- 信用できるか、できないか
ほどほどでOK、とすることができずグレーゾーンを許せないところがあります。筆者もそうなのですが、ものごとに対して全力で取り組むか、まったくやらないか。完璧にできないことは、やらない。人に最大限尽くすか、離れるか。
こんな風に、ほどほどが苦手な傾向にあり、人間関係以外のところでも苦労することがあります。年齢を重ねたり、ハッキリさせすぎないことを「意識する」だけで少しずつですが、改善してきています。
もちろんこれだけではないのですが、筆者の体験をもとにした原因はこういうところにあるのかなと感じているので参考にしてください。
人が怖い・人を信用できないのは「悪いこと」ですか?
人が怖い・人を信用できないというのは「悪いこと」「好ましくない生き方」のように感じられてしまうのが、さらに生きづらさを倍増させている部分があります。
たとえば、信用できなくなって突然人間関係を切ってしまったり、怖くなって突き放してしまったり……ということも、人生の中には普通にありますよね。
ずっと本音を隠して相手に合わせてしまったことで「全部嘘だったの?」「信じてたのに」なんて相手を落胆させ、結果的に傷つけてしまうなんてこともあります。
これほど、つらいことってありません。
そんな構図に気づいてしまうと「周りの人が怖いからと自分を守って、結局人を傷つけてきたんだ、自分って最悪だ」くらいに思ってしまうものです。私はいつもそういう気持ちと共に生きています。
でも自分が悪いというターンに入ってしまうと、今度は自分の軸がグラグラ揺れてなにもわからなくなるんです。
何が正しいのか?
どう振舞ったらいいのか?
何もわからなくなる。
だから私には「相手に合わせて、自分を七変化させてしまう」という、八方美人的な部分があるのだと思います。
自信をもって「人を心から信じることが大事だ!」といえる人からすると、おかしな考え方かもしれません。でも、今はそれで精いっぱいなのです。
何人かの人に、それぞれ違った自分を見せられたらOK

ただし、本当の自分を誰にもまったく見せないというのは寂しいものがありますし、耐えられることではありません。
人が怖い・人を信じられないのであれば「それぞれ違った相手に、自分のいろいろな側面を別々に見せていく」ということが大事だと思っています。
依存先を複数もつという感じです。
人は、ひとつだけの人格で生きているわけではなく、そのときどきや相手によっていろいろな自分をもっているものだと思います。
誰かひとりに対してや、すべての人に、自分のすべてを見せることなんて、絶対にできない。
そうやって生きられたら確かに楽だろうな~と思うのですが、現実的に考えて無理。
他の方はわかりませんが、私はどう頑張っても無理でした。
なので「この人には、こういう部分も話せる」「この人には、こんな話をすると楽しい」「この人になら(今なら)これを話してもいいかも……」という感じで、信頼というものを分けて考えるようにしています。
もちろん、きっちり分けているわけではありませんが、そのときどきでうまく自分を分散的に出していくのです。そうすると、全体的にバランスよく自分の内面が外に出ていって、たまっていたものが昇華されることもあります。
白黒ハッキリさせなくていいのです。
「この人は自分を理解してくれる人なんだから、なんでも話さなくちゃ」とか「親友なんだから全部見せなきゃ」「恋人なんだから、夫婦なんだから」「そういうものだから」と決めなくていいんです。
自分はこういうやり方しかできない、自分だけの「ちょうどいい感覚」がわかるようになるといいですね。
真の「人を信用する」という感覚を証明できる人はいない
最終的には「人を信用している」「人が怖い」「人が好き」「信頼感」「安心感」などなど、こういう目に見えない感覚的なものは、誰にも目で見て確認することができないものです。
だからこそ「本当の信頼とは?」「私は本当にこの人が好きなの?」「もしかして信用していないかも」みたいに、自分で自分を追い詰めてしまう部分もあると思うんですね。
仮に「私には信頼できる友人がたくさんいます!」と言っている人でも、その心の中はどんな感覚なのかをそっくりそのまま理解することはできません。
他人の信頼感を自分がそのまま体感できたとき「え、これって信頼じゃなくない?」と思うことだって絶対にあります。
ですから、あまり「信用とはこういうことだ」という一般論に固執しないことも、非常に大事だと思うんですね。
筆者自身、人を心から信じたり、人を怖がらない、疑わないということは、一生できないような気持になることもあります。いつもどこかで「本当はどう思ってるの?」「私がダメだったかな?」と思いながら生きていくと思うんですよね。
けっこうしんどいので「この感覚がなくなったらいいな~」ってたまに思うのですが、なくならないケースもあります。
きれいさっぱり元通りなんてことはきっとないと思いますし、それって人の感覚や生き方に「正解・不正解」があるようで、あまりいいと思えません。
だからこそ「人が怖い」「人を信用できない」というのは、悪いことでもないし、何が何でも治すべきものではないと考えたほうが気持ちが楽なのではないかなと思っています。
人間不信については、↓の記事も人気ですので読んでみてくださいね。