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愛とは何か?「自然体でただ、そこにいること」【大事なのは居場所】

愛とは何か?人間としてのテーマとしてはとても奥が深い話だ。

現代では「愛とは何か」「恋とは何か」「人を好きになるとは何か?」と、根本的に答えに迷う人も多い。そこでkandouya編集部でも、「愛とは何か」について考えてみる。

愛とは何か……「相手を許すこと」ではない!?

何を持って、それを愛と呼ぼう。人を思う事、人を受け入れること、人を許すこと。与えること、求めること、言葉にはできない感情であること。これらのことは、なんとなく、どんな人だって浮かんだり消えたりするだろう。

愛と言っても、対する人が違えば考え方も変わってくるものだ。

・付き合っている男女における「愛とは」

・家族における「愛とは」

・子育てにおける「愛とは」

・夫婦における「愛とは」

・友人関係における「愛とは」

言い出せばキリがないけれど、一つの結論として、答えを出してみよう。

愛とは、自然体でただ、そこにいることだ

どんな関係だって同じことで、愛とは、無理に受け入れる事でもなく、許すことでもなく、頑張ることでもなく、自然体でいられることではないだろうか。相手だけが自然体でいるわけでもなく、自分だけが自然体でいるわけでもない。そこにいる誰しもが「自然体」の姿でそこにいられる居場所を感じていること。愛とは何か?それは「自然体」と筆者は考えている。

「愛されたい」という思い

誰でも人に愛されたいし、愛を感じたい。愛されるために、相手をわかろうと努力したり、知ってもらおうと努力する人もいるだろう。それは悪いことではないし、素晴らしい思いでもある。しかし、本当は「頑張ることなんてない」のではないか。

愛されたいから、こうしてはいけない。愛しているのに、わかってくれない。愛されようと努力しているのに、求める言葉が返ってこない。このようなすれ違いが、愛情をわからなくさせていくとも言える。

なぜ「無理を強いる」のか

昔からよく、「愛とは何か?」で語られることがある。それは「愛とは与えるもの」「恋とは求めるもの」といった、要するに”あげる側かもらう側か”論だ。では、愛は求めてはいけないのだろうか。そうとも言えない。与えようとしていない人に愛はないのだろうか。そうとも言えないのだ。

「愛」を考えた時、人は何かと無理をしたり、無理を強いる(自分を抑えつけたり、相手を否定したり)ことが多いように思う。

たとえば「他人より愛されていると思いたいから、いいパートナーを求める」「愛されている人は勝ち組だから、そのポジションの獲得に必死になってしまう」「愛のある○○、という形に理想を抱くから、そうではないと思える物事を受け入れられない」といった具合だ。

しかし実際は、どこまで行っても正解にたどり着けないのもまた、愛である。心に無理をして自分を抑え込んだり、相手を変えようとしたりしている時点で、それは愛とは少し違うのではないか。

「その人」が「その人」である、それだけ

あなたは自分の長所や短所を聞かれたら、色々と考えるだろう。たとえば「愛想はいいけど、実は頑固者」とか。「人間関係が苦手で、なかなか他人を信用できない」とか。「ポジティブなところが長所だけど、時々空回りして苦労してしまう」なんて人もいるかもしれない。

けれど極論とも言えるかもしれないが、それでいいじゃないか。あなたはあなたのままで構わないのではないか。そして、「どんな短所や不器用さを持っていても、私は私でいいんだ」と思える誰かといることこそ、「愛」と言うのではないだろうか。

こう考えると、別に頑張ることなんてないし、無理をすることもない。相手の理想に合わせて自分を変えることもしなくていいし、逆に相手を自分の思うようにする理由もない。ただ「その人」が「その人」でいられること。そんな居場所を愛と呼ぶのだ。

愛とは「与えよう」とも「求めよう」ともしないものである

余計なものなど何もいらない。「愛を与えてあげたい」と自分を犠牲にしてまで頑張ることはない。「愛されたいから」と相手に愛を求めて泣いたりぶつかり合ったり、ケンカすることでもない。もっとフラットな状態で、そばにただいられることだ。

人生で自分の揺るがない「居場所」を手に入れる人は少ない。さみしくて辛くて孤独で、愛を掴もうと必死でも、なかなか得ることができない。それでも、「何もしなくても別にいい。いてくれるだけで」と言ってくれる誰かに出会うことができれば、人生の色を変えることができる。

それは恋人かもしれないし、親かもしれない。はたまた、無条件に自分を愛してくれるわが子かもしれない。愛はそこにあるけれど、見方によってはとても自然な状態だから、逆に気づいていないだけかもしれない。

恋人やパートナーに「愛されているか」と迷うあなたへ

もしも、彼や彼女、夫婦間などであなたが「愛ってなんだ?」「愛されてるか不安だ」と思っているなら、「愛」という言葉の前に「居場所がそこにあるか」と考えてみて欲しい。あなたが弱さや情けなさ、かっこつけないダメな部分も、そこで見せられているのかどうかだ。

そして、相手にとっての居場所になれているかも考えてみて欲しい。あなたや相手が「自分」でいられているかどうか、もしそうでないなら、関係をしっかりと見直してみるべき時かもしれない。もちろん、ぶつかり合って気づくこともある。泣いて心を痛めて、やっと愛とは何かを感じ始める人もいる。しかし、それでもあなたがあなたでいられないなら、別の場所に愛があるかもしれない。

親に愛されていないかもしれない、と感じているあなたへ

親の愛は、子供からすれば見えにくい。そして、あなたが同じく親となるまで、親の愛というものはわからないと言っても過言ではない。あなたがまだ10代など若いとして、愛されていないと感じているとしたら、あなたは自分らしくいられず無理をしているのかもしれない。でも実は、怒ったり苛立ったり、むちゃくちゃな行動を取っていても黙って見守ってくれることこそ「愛」と言えることもある。

「見守っている」と「無関心」は違う。あなたがどんな状態でも、毎日変わらずに食事の声がかかり、身の回りのことに不自由がないようになっていて、それでいて深いところに突っ込んでこないのは親の愛だ。

逆にあなたの状態によって態度が大きく変わったり、身の回りに不自由が生じていても知らんぷり(あなたがそのことを親に言えない)、親があなたに期待をかけすぎる、求めすぎるのは愛とは言い辛い。目に見えた放任(ほったらかし)もそうだ。あなたが感じる違和感はきっと正しい。もし家庭に愛がないと思うのなら、できるだけ早く自立することだ。愛は親の中にだけあるのではない。外にいくらでもある。ここは通過点だ。諦めてはいけない。もう一度伝えよう、愛は外にいくらでもある。

我が子を愛せていないかもしれない、と思うあなたへ

まずそう思うあなたには、ちゃんと「愛」があると言える。愛がないのなら、自分を省みたり、いい意味で疑うことはないからだ。あなたにはあなたなりの愛がそこにあって、子育てには正解がないからこそ実感が得にくいのだ。あなたは頑張っている。

愛とは何かと迷ったら、あなたが自然体でいられる居場所をしっかり見つめる

愛とは何かなんて考えだすと、とんでもなく果てしない考えのような気もする。まるで哲学者になった気分だ。シンプルでいるようで難しく、難しいようでいてシンプルであるのだ。

あなたがいきなり何もしないでふとんに潜り込む日があっても、大事な時にのんきに笑っていても、人には言えない下品な一面を持っていても、それでいいということ。それでいいと言ってくれる人がいること。自由に泣いて笑って怒ることのできる場所があること。そのすべてのあなたらしい「自然体」を、愛と呼ぼう。/kandouya編集部

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