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今日という日は今日しかない。生活から離れた年忘れの大晦日

子どもの頃から、私は大晦日がとても好きだった。一年の中でいちばん好きな日。年を越すワクワク感だろうか、それとも年末のご馳走のせいだろうか。

30歳になった今、ふと考えてみたら「母に余裕が満ち足りていたから」なのではないかと思うのだ。

私の家は、他所から見ると裕福な家庭だったが、実際には借金を抱えている上に出費が多すぎる火の車状態の家だった。父は激務。母も働いてばかりで、家事が思うようにできず常にストレスを抱えていた。「理想の家庭像」「理想の母親像」というものが強すぎるために、それに縛られて苦しんでしまうタイプの女性である。

私の1歳の誕生日には、真夏の猛暑の中手作りのケーキに使うイチゴを買いに、都会のデパートまで一人で買い物に出かけたこともあった。3歳か4歳までの頃は、手作りのクリスマスオーナメントを作り、セーターを編んでくれたこともあった。

「素敵なママになりたい」という理想、そして「そうでなければならない」というステレオタイプがひといちばい強い人だったのだ。

しかし、だんだんとそういう生活は苦しくなっていく。お金もかかるし、時間もなくなる。心にゆとりがなくなる。今までは「小さなお人形」だった子どもは、どんどん自我を出しはじめ、コントロールが効かなくなる。それを受け入れられず、母は逆上するようになった。

ただ、母が常に「いいお母さんでいたい」と思っていたことは、変わらず確かなのだ。

母が「生活を忘れられる日」それが大晦日だった。

年末の仕事納めをした母は、家の掃除をしたり、年賀状を書いたりと、実に落ち着いた余裕のある暮らしをはじめる。しっかりとエプロンをして、真冬の汗を拭いながら、家事に勤しんでいた。そこに普段のあわただしい生活感はなく、目の前のことに集中することが許された。

年が明けてしまえば、反りの合わない義両親の暮らす家に挨拶に行かなければならなかったり、また普段の生活に戻る焦りや名残惜しさを感じたりするようになる。

私は、母の作る料理が好きなわけでも、大晦日の特番が好きなわけでも、年越しの瞬間が好きなわけでもなかった。

母が「生活を忘れることのできる余裕」を、そっくりそのまま感じ取っていたのだと思う。

私も、母になって思うことがある。自分の中に余裕があり、完璧なルーティンで生活が回ったその瞬間こそ「幸せ」や「生きている実感」を覚えるということだ。

たとえば、分刻みのスケジュールを、軽やかにこなせたとき。憂鬱な用事を終わらせた達成感。整った部屋、感情的にならず穏やかでいること……

挙げだすとキリがないくらいに「こうありたい」という生活上の理想像は強い。そういう縛られた完璧主義や、理想の生活は自分を苦しめるものでしかない、というこはもう嫌というほど見聞きしてきたし、できることなら手放したい。

でも、正直なところ「理想の生活ルーティンを回せたときの幸福感」を超える快感はないのだ。もしかしたら私も、そんな偏った完璧主義のせいで家族に嫌な思いをさせている部分があるかもしれない。人間誰しも歪みがあるものだし、自分は自分が思うほど器用ではない。

理想の生活なんてそんなに価値のあるものではないのだけれど、やっぱりなりたい自分でいられるときの幸せは、麻薬にも近いような「依存」と「快感」があると思う。ただ、今ここに少しの余裕さえあれば、それを感じられるのは事実だ。

日本の女性は「生活」に追われている

現代の女性は、あきれるくらいに忙しい。子育て、仕事、家事、夫婦の時間、ご近所づきあいにママ友との連携やPTA、自治会活動……

核家族が増えている一方で、やるべきことは減らない。シッターや家事代行を頼める経済的余裕のある家庭はほんのひとに握りだろう。たとえ経済的余裕があっても、他人に自分の家庭の「家仕事」を頼むのは、何だか後ろめたかったり、プライバシー的に気が進まなかったりすることもある。いくら家電が便利になっても、自動化が進んでも、流れていく生活のあわただしさはなかなか拭えない。

夫も進んで家事育児を……という動きはあるが、理想的な夫婦の協力関係が成り立っている家庭が果たしてどれくらいあるだろうか。夫の協力を得られない、母子家庭の場合はどうだろうか。女性にもっと余裕を……とはいっても、なかなか理想通りとなっている家庭ばかりではないのが現状だ。

「女性だけが家事や育児を担う時代じゃない」という考えが、もはや常識にもなっているが、私個人としてはやっぱり、家仕事を楽しみたい気持ちをもっている女性も多いのではないかと強く思う。

冷蔵庫の中の残り物ではなく「今日は、これを作りたい!」とメニューを決めて、こだわりながら料理をしたい。1日中思う存分手芸や裁縫をしたい。子どもに中断されることなく、家の片づけをしたい。家じゅうくまなく掃除をして、さっぱりした部屋で冷たいお茶を飲みたい。

もっと、余裕を持って暮らしたいのだ。

バタバタと出かけて、仕事をして帰宅して、座る暇もなく冷蔵庫のあまり食材と格闘するのでもない。子どもの泣き叫ぶ声に中断され、3歩進んで2歩下がりながらの家事でもない。夕飯を食べながら、子どもに「座って食べろ」「こぼすな」と口出ししてしまう自分なんて本当は嫌なのだ。

独身女性だって同じだろう。仕事帰りにきちんと自炊の材料を買って帰り、自分のために自分の好きな料理を作って、半身浴で冷えた体を温め、アロマオイルを炊きながらボディクリームを塗ってセルフケアをする。そんな生活はさぞかし理想である。

しかし実際は、仕事のあとに自炊する気力も体力も残っていない。仕事や上司の高圧的な態度や下世話な発言をぐるぐると思い出して、酒を飲んでしまったりする。寝る前には夢ノートを記録したり、瞑想やヨガをするのがいいのだろうが、実際はスマホの検索画面に「仕事 やめたい」などと打ち込みながら眠りに落ちたりする。体にも心にも悪いとわかっていながら、生活はそうやって過ぎていくのだ。

「理想の生活をする自分の姿」は、どんな女性の心にもあるはずだ。しかし、日常にはその前後があって、生活が常に流れていく。だから、いつも理想の自分とはかけ離れた状況にウンザリして、何かが足りない気がして、焦ったり、落ち込んだり、イライラしたりするんだと思う。

私は大晦日がくる度に、母の心からの「余裕」を無意識のうちに、そっくりそのまま感じて、嬉しくなっていたのだと思う。

今日は今日しかない、と思える唯一の日「大晦日」

親から離れて何年が経とうとも、大晦日は母の「余裕に満ち足りた顔」を思い出す。大晦日というのは、どこか「生活」を忘れさせてくれる、時間の止まった感覚があるのだ。

人が生きることそのものが「生活」なはずであるが、その生活に苦しめられてしまうなんて、同じところを何週もするような苦行のように感じる。だからこそ、限られた時間をどう使うか、何に重きを置くか、何を選び、何を捨てるか……。

日々考えることや試行錯誤するべきことは、思っているよりもはるかに多いということだ。自分は自分が思っているほど器用ではない。人がひとり生きる上での苦労は、想像以上に多い。ましてや、誰かと関わり合いながら生きている私たちは、その何十倍もの苦労があるのは当然なのだと納得すらしてしまうものである。

年忘れとは、その年の苦労を忘れることだ。新しい年もまた、毎日の「生活」との戦いが始まる。それに備えて、大晦日だけは、難しいことや面倒なことを考えるのをやめてみてもいいのかもしれない。

前後のことは気にしない。今日は今日しかない、という感覚こそが年忘れであり「大晦日」という日なのではないだろうか。/Kandouya編集部

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