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幸せは、言葉にした瞬間から別のものになる気がする

「あなた幸せね~!」

自分以外の人が、私にそう言ってくることが度々ある。そのたびに、何だか嫌な感じがする。

私は確かに今、とても幸せだ。どこからどう見ても、満たされた生活をしている自覚がある。一緒に暮らす家族にも友人にも、不満はない。

そりゃぁ、生きている限り「どうしたもんか……」と頭を抱えることはいくつもあるし、日々その繰り返しだ。でも、確実に不幸ではないし、幸せですかと聞かれたら「はい」と即答できる。

でも、自分ではない他の人に「あなた、幸せね」と言われるのはなんだか、腑に落ちない。「そうですね」と、とりあえず返すけれど、なんだか居心地の悪さを覚える。

このモヤモヤの正体は「人の幸せを勝手に言葉にするな」という無意識の訴えが、幼いときから心の中にあったからかもしれない。

「うちは本当に幸せな家族だよね」という母の言葉

幼いときから母は、私に逐一「うちは幸せだよね」と言葉をかけてきた。そして、私はそれを信じた。

母は、自分の現状が上手くいっているときや、自分の機嫌がいいときは「私たちって、本当に幸せな家族よね」と、私に言う。両親が揃っていて、持ち家をもっていて、楽しく食卓を囲むことも多い。母と娘は仲が良く、一緒に街を歩けば絵に描いたような幸せそうな親子だったかもしれない。

「幸せ」を連呼した数分後には、突然キレて物を投げまくり、暴言を吐きながら私を殴るのだが、私たちは本当に幸せな家族だ。

「レッスンにちゃんと行けたら、好きなお菓子を買ってあげるからバレエに行こう?」「家族で合奏ができたらステキでしょ? バイオリンを習おうね」「可愛い制服を着たいと思わない? 私立の小学校に転校しよう?」

嫌だと言わなかった私も悪かったかもしれないが、母の誘いを断ることはできなかった。いつもなんどきも、母の誘いはすばらしいものだと信じていた。頑張ると母が笑ったし、上手くできたり結果を出せば、母は満足げだった。私が頑張れているときは、家庭の中が明るい雰囲気で何もかもうまくいっているような気がした。

しかし、私が習い事でうまくできなかったときや、先生の質問にハキハキ答えられなかったとき、やる気が感じられないようなことがあるとき、母はキレてしまう。私のことだけではなく、部屋が散らかっているとき、自分は忙しいのに私がのほほんとしているとき、私が成長して変化したとき、いろんなときに母は怒り狂った。鬼の形相になり、今にも部屋に灯油を撒いて火を点けそうな勢いで逆上する。おそらく、自分ではコントロールできないものなんだろうと思う。

私は「この時間さえ過ぎれば普通にもどれるから、とにかく早く時間が過ぎてほしい」と願った。母の気が済むのを、土下座しながら待つ。何が悪いのか、どうすればいいのかもわからないまま、ひたすらに謝る。とにかく、母の気が済むまでの辛抱だ。

それが私の「幸せな家族」なのだ。

学校でも、私はみんなに「〇〇ちゃんのお母さん、きれいで優しそう」「あんなお母さんがいい」と、耳が腐るほど言われた。

そのたびに私は「私のお母さん、怒ると怖いから……」と少し謙遜する。そんなことを言ってみても、誰もほとんど聞いてなどいない。

「えーうちのお母さんのほうが絶対怖い!お母さんってすぐ怒るよねー」

そう言われると「あぁ、よそのお母さんもきっと、怒るときはああいう風に変わるんだなぁ」と思った。それならばきっと、私のお母さんはやっぱりみんなの理想のお母さんなんだ。私はお母さんを悪く思ってはいけないし、もっと頑張ってお母さんに認められなければいけない。そういう念も強くなった。

今でも「あなたのお母さんはとてもいい人ね」「あの人がそんな風だったなんて、どうしても信じられないの」と言われることがある。

幸せな家族なのになぜ? 7の70倍許しなさいの言葉

私が通った小学校は、カトリックのミッションスクールだった。朝と帰り、食事の前後に祈りの時間がある。そして、聖書のお話を毎日のように聞いた。

その中で私は度々気になる言葉があった。

ペトロというイエスの弟子が「私の兄弟が罪を犯したら、何回までは許せばよいでしょう」という問いに対し、兄弟たちは「7回」と答えました。しかし、イエスは「7回どころではない、その70倍は許しなさい」と答えたのだという話。

これは何を意味するかというと、人は自分の犯した罪を日々神に許されている存在である。そして、それを理解することで自分も他人を許すことができるようになる……ということ。

正直小学生の私には、この話の本当の意味は理解できなかった。でも、この許しという言葉にはすごく気持ちが惹かれた。小学校の階段をのぼりながらいつも「どうしてイエス様は罪を7の70倍も許していいというのに、私は1回だって許されないのか。聖書の教えなんてデタラメなおとぎ話なんだ」と憤りを感じていたのをよく覚えている。だって、私は幸せな家族に恵まれているし、立派な両親を持っている。そんな家族が聖書の教えと正反対のことをするはずがないし、そんなことがあってはならないと思っていた。

「幸せ」は言葉にしない

私は今、とても幸せだ。先にも言ったように、どこをとっても満ち足りていて、これで不平を言うのは傲慢であるとしか言いようがないとも思う。親とは10年以上前に別居し、結婚して子どもを設けている。

本当に幸せだと思っている。でも、私の家族は誰も幸せを口にしないし、確認しない。別に、幸せなんだから「幸せだね」と言えばいいと思う。幸せを確認し合ったって何も悪いことはない。

でも、私は子どもに「あなたは幸せね」なんて言おうと思ったことがないし、夫も私に「君は幸せだな」なんて言わない。私も「あなたは幸せね」なんて言う、その発想がない。

たとえば「あーなんて幸せなの!」といったように、満ち足りていることを自分から口に出した相手に「そうだね、幸せだね」と共感するのは、自然な形だろう。でも、やっぱりどんなに近しい間柄でも「あなたは幸せね」と言うことはできない。これは、言ってはいけない禁句でもあると私は思っている。

きっと母は、自分自身が幸せを感じられなかったから、言葉にして、確認して、安心したかったんだろうなと、今では思う。「うちはお父さんとお母さんが離婚していないし、お父さんはいい会社に勤めてるし、そのおかげであなたはこういう暮らしができているのよ。とても恵まれているのよね。私たちは幸せね。」

母が自分に言い聞かせていたセリフを、私は丸ごと信じていたのかもしれない。

正直私は今でも常に全力前進、切羽詰まっていないと幸せを感じてはいけないような気がする。自分の幸せ、好きなこと、楽しい話を人に話すのが少し怖い。別にそれでもいいんだけれど、繰り返しの言葉によってイメージを植え付けることで長い期間に渡り、大きな影響を与えることがある。

子どもがまだ赤ちゃんだったころ、街中を子連れで歩いていると「まぁ、可愛いわねぇ。あなた幸せね」と言われることがよくあった。結婚や出産といったライフイベントでは必ず知人から「幸せでうらやましい」と言われる。

そう見えるのは、とてもいいことなんだろう。褒め言葉なのか、他の気持ちからくるものかはわからない。

でも私はやっぱり、どんな人を見ても、勝手に「幸せだね」と言葉にすることはできない。友人の結婚式でスピーチをしたこともあるけれど「幸せ」という言葉は使えなかった。その人が何を抱えているのかは、絶対にわからない。幸せという言葉を容易く口にしてしまうことで、それはすごく薄っぺらく実体のない単語でしかなくなる。スカスカの綿あめみたいなものに感じるのだ。すぐに溶けてドロドロになって、ただ甘いばかり。栄養どころか毒でしかない。

それくらいに、重みのある言葉であり、大切なものであることもまた確かである。

幸せは、人によって違う。だからこそ、言葉を慎重に選ぶ。

収入が高いこと、結婚していること、子どもが要ること、立派な仕事をもっていること。

いろんな状況で、幸せが語られる。でも、人によって何を幸せを感じるかは違うのだ。自分が欲しいものを相手が持っているときに「あなたって幸せなのね」と皮肉ってしまったり、自分が不安なときに「私だって幸せよ」と強がってしまったりすることは、日常の中でよくあることだろう。

人の幸せを、勝手に人が決めてはいけない。

幸せだと言葉に出すとき、それは自分自身が「幸せだ」と思いたいときなのではないだろうか。そして、本当に幸せだと感じるときは、それを言葉にするのも忘れるくらい深い感情に浸っているものだと、私は思っている。/Kandouya編集部

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