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ネガティブ/マイノリティ専用WEBマガジン

私は今日も、悲観的な想像から逃げている

目の前にあるすべてのものがなくなる想像から、私は逃げている。 人生をあきらめているのでもないし、不幸なわけでもない。

私は今、何事においても不満がなく、安定した暮らしをしている自覚があり、よき理解者にも恵まれた。日々のやるべきことや、責任のようなものは感じていても、どれもストレスとは呼べない。

ただ、今周りにいる人たちがいなくなるときのこと、今目の前にあるすべての物がなくなっていくのを、常に想像している自分がいる。

信頼している友人とある日突然連絡が取れなくなったときのこと。夫が突然この世を去ったり、他の女性のところに行ってしまうこと。自分の子どもが目の前からいなくなったときのこと。両親が亡くなるときやその後のこと。財産をすべて失ってしまうこと。いろんな最悪の事態が、日替わりメニューのように浮かんでくるのだ。

今ある幸せに感謝するとか、なんでもないささいな日常のありがたみとか、そういう美しい感謝の気持ちなどではない。

自分が最悪の状況に立たされたとき、途方もない悲しみに打ちひしがれたときのために、日々準備をしておきたいような気持が常にあるのだ。

私の不安は、防衛的悲観主義によるものではないか

防衛的悲観主義というものがあることを知っているだろうか。防衛的悲観主義とは、ある課題に対してあらゆるネガティブな結果を想定する人の思考タイプのことである。

近年、ポジティブ心理学や潜在意識へのアプローチなどが注目され「ネガティブ思考は何もいいことをもたらさない」ともいわれる場面が多い。

確かに「病は気から」「何事も気の持ちようである」といった考え方も、それはそれで正解であると思う。ただその一方で私は、ポジティブになろうとすればするほど息苦しく、恐怖感が高まってしまうのを自覚するようになった。

本当に、誰も気にしないような小さなことが怖い。たとえば、自分がふと発言した言葉が人を傷つけるのではないか、よかれと思ってしたことはありがた迷惑なのではないか、ということは日常の人間関係で常に感じている。仕事でも、この作業をすべきという、この場合こう動くべきという自分なりの見解があっても、それが引き金となって人を不快にさせたりミスや時間のロスなどにつながったりすることが怖い。

子どもを育てているが、自分は今どうすべきなのか、何を言うべきなのか、いちいち深く考え込んでしまう。母親が、難しい顔をして何かを考えている間、子どもはもしかすると「母親は怒っているのだろうか?」なんて思っているおそれも否定できない。ありとあらゆるミスや失態を想像して、スムーズな判断ができないのだ。

対人面での不安が強い傾向はあるが、仕事でも、プライベートでも、どんなシーンでも同じだ。思い返してみれば、子どものころからずっと、そうであったように思う。少なくとも楽観主義ではなかったし、楽観主義と悲観主義の分類は幼少期にはもう既に決まっているともされる。

自分が、日常のささいなことでいちいち不安になり、ネガティブな想像を抱えてしまうのは、たとえば敏感気質のHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)のせいである、親子関係の問題である、トラウマの問題であるなどといろいろな仮説を立ててきた。

しかし、やはりいちばん納得がいくのはこの防衛的悲観主義という性質。これが自分の中に強靭な「不安の鎧」を作り上げているのかもしれないと思うようになってきた。

今ある幸せすら、ずっと続かない。目の前にあるものが、いつか消えてなくなる想定で暮らしていく。それは、起こりえるネガティブな問題から自分を守るために、今やっておくべきことを常に探しているような状態にも似ていると感じるのだ。

何のせいにもできない不安との戦い

私は日常に不満がない。何不自由ない暮らしをしているという自覚がある。しかしその一方で幸福感が薄い。

「あぁ、幸せだなぁ!」「ハッピー!最高!」などと感じることがとても少ない。感激することや、心が動かされるようなことは多々ある。しかし、どうしても瞬間的に感情がついてこなかったり、幸福感に浸るということができないでいる。

自分が縁や環境に恵まれており、何不自由なく暮らし、好きなことを仕事にし、自己実現のようなものを目指しつつある。それなのに、幸福感が薄い。幸せになってはいけないような、心からの幸せを感じてしまったらおしまいなのではないかという不安がある。

たとえば、私が書く文章の多くは人の心に関するものだ。心といっても、おもしろ心理学や、モテる心理学といったものではなくて、悩みやコンプレックス、トラウマ、家族関係や子育てについて書くことが圧倒的に多い。すべてがネガティブな題材である。

もし私が、完全なる「幸せ」を感じてしまうとどうなるのだろうか。悩みの渦中にいる人の気持ちがわからなくなるのが怖くて、自分にはもっともっと、課すべきものがあるように思ってしまう。もっと厳しい現実に目を向けなくてはいけない、深刻な問題について知らなければいけないと、どんどん自分を暗く重たい方へ引っ張っている部分がある。

これもまた、私の生まれ持った「自分を守るためのネガティブ」なのだろう。自分を追い詰めることと守ることが、紙一重な人間がいるんだなぁと、自分自身を見ていて思ってしまう。

本当に、誰のせいでもない。気質のせいでも育った環境のせいでもない。何のせいにもできない不安だ。ただ生きているだけで沸いてくる不安を、何のせいにもできなくなると正直なかなかつらい。悩んでいる、というわけではないけれど、不安がまるで影のようにつきまとっているという感覚は否めないのである。 いくら自己理解を深めても、不安が完全に消えることはなかったし、満足することがないのだ。

ネガティブで悲観的な自分が作り上げてきた結果

「不満のない人生を手に入れたのは、君が生きてきたことの結果だよ」

私にそう言葉をかけた人物がいた。

最初は「まぁ、そうなんだけど」なんていう、ふんわりした感想をもった。しかし、よくよく思い返してみると、確かにこの不満のない生活や、よき理解者がそばにいる現状というのは、どこまでも悲観的で、ネガティブであったことの結果ということになるのだ。

私はいつも不安だったが、ただ単に嘆き悲しんでいたわけではなかった。あらゆる不安を取り払うために、考え、調べ、試し、行動した。想定できるネガティブな失敗に対し、しらみつぶしに防衛策をとった。

それは絶対に「よっしゃ、やってやる!」「立ち向かってみせる!」みたいな、負けん気溢れる気持ちなんかではなくて、想像してしまう無数の不安から、逃げるためだった。怖いことから、逃げて逃げて逃げまくってきただけだった。

ネガティブで悲観的な自分の脳みそから、ずっと逃げてきただけだったのだ。それがなぜだか、とても平穏な、不満のない、普通の暮らしを作った。これが、私が生きてきたことの結果だというなら、悲観的であることも、ネガティブであることも、悪くはないのかもしれない。

普通の暮らしほど、難しいものはない。目の前に何気なくあるものや、そこにいる人、私を知ってくれているすべての人との縁を手に入れるまでは、やっぱり確かに絶対に、険しい道のりであったように思う。

だからこそ、この幸せがいつかなくなること、変化してしまうことから、私はこれからも逃げ続けていくと思う。/夏野 新

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