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明るさだって好きなのに…涙もろい人ほどネガティブな芸術作品を好む!?

 

私は普段、ネガティブで重いテーマを扱った映画や小説、哀愁のある音楽を好んで楽しんでいる。10代の中盤頃からは流行を追うよりも、暗くてメッセージ性の強い映像作品や、ダークな小説や音楽を好むようになった。

 

私はこの傾向をずっと「自分は根が暗い人間だから」だと思い込んでいたのだけれど、それは大きな間違いだったかもしれない。

 

ネガティブな芸術作品を好む人はどこまでもポジティブなのだということに気づき、私は今、この上ない喜びを感じている。

 

寂しさや悲しさといった哀愁を求める人は、どこまでもポジティブな才能に溢れている。

 

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ポジティブな作品は、そのエネルギーの大きさに耐えられない

先日子供たちが車の中で、運動会のBGMで繰り返し流れていた「ももクロ」の歌を聴きたいとせがんできた。子供たちは最近、テレビや街でよく耳にする音楽や、流行のアニメや映画で使われている音楽に興味をもつようになってきた。家でも、あいみょんだの米津玄氏だのといった流行の曲を歌っている。

 

「たまにはそういうのもいいなぁ」と思って、ももクロの「笑一笑 〜シャオイーシャオ~」をサブスクリプションで再生する。車を走らせながら、アイドルの高く軽やかな声を聴いた。子供たちが、うろ覚えながらもその歌を口ずさむ。サビになると、ここぞとばかりに熱唱しだす。私の頭の中にも歌詞が自然と反芻する。

 

なぜだろうか。

 

泣けて泣けて仕方がない。なんでだろう。全然思い入れなんかないのに、涙が止まらない。

 

涙というよりも、なんかこう鎖骨の下あたりのから、何かのエネルギーを出産しそうな感じがする。

 

「なんだよこれ、素晴らしすぎるよ。」と、泣いてしまう。

 

そのとき私は、なぜ自分がいつもネガティブな作品ばかり好んでいるのか、わかった気がしたのだ。

 

一点の曇りもないポジティブな作品には、明るくて素晴らしくて、純粋な愛みたいなものしかない。

 

共感性が高い自分は、その全力のポジティブエネルギーに対応できないのだ。

 

共感性とは「人の感情をそっくりそのまま感じる」ということ。人の気持ちを想像して「つらいんだな」とか「嬉しいんだな」と理解することとは違う。相手の感情とまるっきり同じになる、ということなのだ。

 

私は、この共感性の高さゆえに、日常的にポジティブな世界に浸ることができないのだと思った。ちょっと曇らせてくれたり、影を作ってくれないと「この世の素晴らしさ」を受け止めきれないのだ。

 

思えば、運動会で子供が走っているのを見るとき、音楽を聴かないようにしていた。大抵、感動を後押しするようなポジティブナンバーが流れて、一生懸命な子供たちの様子をさらに眩しく見せるためのプラス要素となる。

でも、あれをまともに聞くと号泣してしまうので、運動会終了まで体力も気力も持たない。だから、音楽は気にしないように見る。

関係ない学年の子供や、知らない子供のときは少し油断する。音楽やその場の雰囲気、先生たちの様子や子供の動きを全体的に楽しみたい。でも、泣きそうになるのでやっぱり直視するのが難しい。

歳を重ねたから、子供を生み育てて丸くなったからポジティブに感動するようになったのではない。私は昔から、仲間が一致団結して何かを成し遂げる系の感動作品や、友情・愛情・希望に満ち溢れた作品があることを知っていた。何度も観たし聴いた。

でもそれに触れるたびに「感動の先にある、何か別のネガティブ」が生まれるのを感じていた。

昔から、前向きな作品を観たり聴いたりして感動すると「なぜ私はこの中の一員になれないんだろう…」「私もこの作品の中に入ってしまいたい!」という叶わぬ願望に潰されて、苦しくなることがあった。

感動する=単純に心が温まるとか、勇気をもらえるとか、そういう感じではない。自分と作品との間に隔たりがあることにつらさを感じて、なぜか最後にネガティブな気持ちで終わる……というパターンが多かった。

 

これは「自他の境界線」の薄さなのではないか、と思う。

 

思春期ごろから、だんだんとこの「共感性の強さ」や「境界の薄さ」がしんどくなりはじめ、ポジティブ全開の作品に触れることを少しずつやめるようになった。もちろん、自分にとってあまりいい時代ではなかったので、自然とネガティブな方面に意識が向いていたこともある。

でも、やっぱり全力ポジティブの素晴らしさに浸りすぎるがゆえに「自分や現実との落差」みたいなところに、がっかりしたり、寂しくなったりしてしまうのかもしれない。

ネガティブな作品は、観ていて・聴いていて「楽」なのだ

共感性の高すぎる人や、自他の境界の薄い人にとって、全力ポジティブと向き合うのは難しい。作品そのもののよさはわかりきった上で「自分の置かれている状況と作品との落差」に目が行ってしまうことがわかった。

その点、ネガティブな作品は「ちょうどよい」「楽」という感覚がある。

ネガティブな作品は、ほどよく感情の興奮を抑えてくれるのだ。

 

悲しさやつらさ、寂しさを扱った作品は、その中に隠されたメッセージ性を読み取ることや、考えることに注力する。

「この作者は何を伝えたいのか?」

「一見すると〇〇の話のようだけど、△△にも共通する点があるのでは?」

こんな風に、作品を楽しんだあとに小一時間自問自答できる。

 

その分「興奮」や「感動」に真っ向から向き合わなくていいので、自分の感情の爆発を分散してくれるからなのではないだろうか。

 

簡単に言えば、自分の感情と向き合わなくていいから楽なのだ。

 

共感性の高い人ほど、ネガティブな作品で「感動」している

 

ヨーロッパ2大学の共同研究によって「共感性の高い人ほど、悲しい音楽で感動している」という研究結果が出ている。

この調査では、共感性の高い人程、悲しい音楽からポジティブな感動を得られ、共感性の低い人は、ただただ不安になるばかりで余計にネガティブ思考が加速するということがわかった。

 

確かに私は、どんなにネガティブなテーマの映画や小説を読んでも、何かしらの感動がある。ネガティブ作品を観て泣くことはほとんどないけれど、その中から前向きな要素や学習すべきことを探すのが楽しい。

感動とは、何もスタンディングオーベーションのような拍手の嵐だけではなくて「学び」とか「教訓」のようなものも感動の一種だからだ。

 

これが「悲しい音楽を聴いて感動する」という調査結果に繋がるところなのではないだろうか。

 

つまり、共感性の高い人はどんな暗い芸術作品からでも、学びを得ることができる。相手の感情がそっくりそのまま自分の中で再現されることで、同じ人生を経験したかのように学ぶことができるのだと思う。

見るに堪えない胸糞映画と呼ばれるような作品だって、私は好きだ。現実には、映画よりもひどいことが毎日起こっているし、そういう世界を垣間見ることも学習のひとつであり、感動のひとつだ。

 

でも、そんなひどく暗いテーマの作品からもポジティブを見つけることができるというのは、私たち「ネガティブ作品好き」の最大の強みでもある。

どんな逆境に生きようとも、どんなつらい現実を目の当たりにしようとも、そこから何かを見つけて自分の心の糧にする。

ということは、やっぱりポジティブ全開のキラッキラな世界を見ると、その真正面からの眩しい光には感性が耐えきれないという理屈は、あながち間違いではないのかもしれないと思う。

ネガティブ作品が好きなことを、もっと誇るべきである

私は「自分がひねくれていて暗い人間だから、ネガティブな芸術作品が好きなのだ」と思い込んでいた。だから、自分の好きなものを人に話すことができないという部分があった。

でも、本当は違うんだと思う。私だって前向きで、眩しくて、スタンディングオベーションや胴上げが起こりそうなものだって、本当は好きなのだ。

ただ真正面から向き合うには、エネルギーが強すぎて太刀打ちできないのだろうと思う。ポジティブな芸術作品は、休憩時間にサラっと聴き流したり、1日の終わりに寝っ転がりながら程よく楽しめるようなレベルではないくらい、美しいエネルギーで満ち溢れているんだと思った。

 

だから今日は誰にも見られないところで、こっそりももクロを聴きまくって、自分の鎖骨の下当たりから湧き出るエネルギーを生み落とそうと思う。そして、たまにはそうやって自分の中の感受性の強さをちゃんと見つめようと思った。/夏野 新

 

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