「繋がりすぎて」疲れてしまったあなたへ

「ありがとう、さようなら」を純粋な笑顔で言える人は、冷たい人だろうか。
人間関係を探す努力。作る努力。続ける努力。
どれも前向きな努力の仕方だ。繋がりを大事にする人は信頼され、信用され、人として「善い」とされる。
けれど、繋がりを切りたい。断ちたい。そんな衝動に駆られる私は、冷たい人間なのだろうか?
繋がりを求めて辿り着いた「繋がり過多」になってしまったら

人にはキャパシティがある。
にも関わらず、あれもこれもと繋がりを作り続けていたら、いつの間にか膨大な量の繋がりができてしまった。
あの人もこの人も。
そして繋がりを作っていくうちに、なんだか息苦しくなった。私は何をしているんだろう。満たされたはずの心は虚しさを抱えるようになっていた。
その息苦しさを、私はこう名付けた。「繋がり過多」。あまりにも繋がっている人が多すぎて、苦しくなってしまう現象である。
その苦しさの原因は一つ。自分のキャパシティよりも繋がりの数が過剰なのだ。
じゃあどうする?人との繋がりを断つしかない。適量にするために減らすしかない。
…嫌な人と別れるのは簡単だ。「こいつ嫌い!」と思い切ってブロックしてしまえばいい。職場や学校、所属しているコミュニティが被っていなければ、サクッとお別れして、それでおしまい。逆に、もしブロックすることができない環境にいるなら、残念だが繋がりを保つ選択をせざるを得ない。しかし、どちらにも共通しているのは、自分がすべき行動が明確にわかる、という点。そういう意味ではとても楽だ。
問題は、こっち。「特に悪い人じゃないし嫌いでも何でもない人。過去にお世話になったけどちょっと価値観が合わない人」。
相手に非はないのだ。別に自分に対して害をなすわけでもなければ、敵意もない。悪意もない。でも今は友達というほど関わりはない。昔は一緒にいた人。でも、今は違う人。
それで、今も何となく繋がっている。それを断つには少し、ためらう。そんな人。
LINEのトーク履歴を見れば、最後に会話したのは一年前だったり、もっと前だったりする。最後の言葉は、「また一緒に会おうね、おやすみ〜!」。
そこだけ時間が止まっている。でも何かのきっかけで、また時が動き出すかもしれない。そんなわずかな希望を残している。
…そんな一縷の希望を持ったままの繋がりが、LINEを占拠していた。繋がり過多の人の特徴である。
もしこれが、全く望みも希望もない完全に死んでしまった繋がりなら、トークも連絡先も過去の残骸としてすぐに消せるのだろう。
でも、まだほんの少し、希望がある。もしかしたら、また軽いノリでトークが始まるかもしれない。そんな可能性を、捨てきれない。
これは情なのだろうか?或いはもしかしたら、今まで「繋がり」をたくさん求めた飢えがあったからこそ感じる、ある種の未練なのだろうか。
さようならを選択するのもいい

それでも私は、繋がりを断つことを選択した。いっぱいいっぱいになってしまって、本当に苦しかった。
LINEの履歴を削除していく。ちょっとめんどくさかった先輩も、友達の紹介で知り合った人も、昔は仲が良かったけど疎遠になってしまった地元の友達も。
削除することで、相手を傷つけてしまうことがあったらどうしよう。もし相手がこちらに連絡しようと思って、消されていたことを知ったらどう思うだろう。
そんな不安を振り切って、削除した。次々に削除していくうちに、少しずつ気持ちが大きくなっていくのがわかった。どうせならもっと徹底的にやっちゃおうか。
LINEを閉じて、次はあんまり使っていないFacebookを開く。誰だこれ、みたいな人がたくさんいる。最後に会ったのがいつなのかすら分からない人が大勢いる。たまに結婚したり離婚したり再婚したりして名字が変わっている人すらいる。
そして、さらにTwitterまで開いてしまった。なんかもう感覚が麻痺してきて、削除することの違和感がだいぶ薄れている。Twitterでも「誰だこれ?」みたいな人はフォローを外していった。ひょいひょいとフォローを外していったら、ほとんど残らなかった。
あっという間に繋がりはなくなった。奇妙な達成感が残った。
それからしばらく、私はビクビクしながら日々を過ごした。
削除するという選択をしたのは紛れもない自分だ。それをいつ誰に咎められるか、と思うと落ち着かなかった。もし、削除した人から「てめえふざけんなよ、なんで外したんだこのやろー」みたいなことを言われやしないか…もしそう言われたら、私はどう答えればいいのか…「ごめーん、そんなつもりはなかったの、うっかり間違えて外しちゃった!」とでも言えばいいのか…?
そして、予想通り、そんなメッセージが来た。それはTwitterの、匿名質問箱から来た。
「フォロー外してフォロワー稼ぎですか。最低ですね」
いや、別にそうじゃない。でも、そう見えるのか…と落ち込んだ。やっぱり私は非情な人間なのか。繋がりを断つのは、非情なことなのか。
生きやすさを求めるのは罪じゃない

繋がりを断つ。
それだけを聞くとまるで冷たい人間のように聞こえるかもしれない。
けれど、考えてみてほしい。繋がりを断つのは、目的ではなく手段だ。別に「へへへ、せっかく繋がった人をブロックして悲しませてやる〜」という意図は全くない。
ただ、苦しみから解放されるための手段でしかない。生きやすさを追求した結果だ。
人は誰しも生きやすい道を模索する。それを非難する権利は、誰にもない。
時に、「冷たい人だ」と思われるようなことをしなければ自分を守ることができないこともあるが、そんなこと、どんな人にでも起こりうることじゃないか。
決して自分だけが非情な人間にならなくてはいけない、なんてことはない。
それならきっと必要なのは、「冷たい人間にならないこと」ではない。冷たく見える人を赦すことだ。
私が誰かから離れるように、誰かもきっと私から離れていく。
その時に、離れていく人を、そっと微笑んで静かに見送る。自分がきっとそうなれるなら、相手もきっとそうなれる。
「ありがとう、さようなら」は冷たくない。
きっと相手も人を赦し、赦され、そんな連鎖の中にいる。
最後にそう信じるのなら、「ありがとう、さようなら」は温かな信頼の形とも言えるのではないだろうか。
私はそう信じたい。/kandouya編集部