自分を変えたい。変わりたい。
ポジティブな自分に、もっと輝くような自分になりたい。
でも現実は「また自分同じことで悩んでいる……」とか「なんでいつもこうなんだろう……」という不甲斐なさを感じて、落ち込んで、の繰り返し。
その気持ち、痛くて血が出るほどわかる。
でも、筆者は「変わりたいのに、どうやっても変われない」のには、とても重要な意味があると思っている。変わりたいのに変われいのは、変わる必要がないからということなのではないかな。
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「変わりたいのに変われない」そこにある心理

自分を変えたい、変わりたい。
そう思ったときの人の心理には、どんなものがあるか考えてみようと思う。そして、そこにはとても大切なヒントが隠されていることを知っていこう。
自分を変えたいのは「今のままではダメ」だから
自分を変えたいと思うのは、当然「今のままの自分ではダメ」と思っているからだろう。筆者も随分前から、というより今も「今の自分じゃダメ」と自分に鞭を打ってきた。でも、なぜ今のままの自分ではダメなのだろう。
- すぐに落ち込むから
- 性格が弱いから
- お金を稼げないから
- 自己主張できないから
- 空気が読めないから
- 感情的になるから
いろんな理由があると思う。
では「今の自分ではダメ」と決めたのは、誰なんだろうか。
それは、自分を育てた親だろうか。周囲の友人だろうか。社会的に見て「そういうのってよくない」という風潮かもしれない。そして何より、自分自身が「自分ってダメ」と思っているに違いない。
でも、自分自身が「今の自分ダメ」「変わりたい」と思うのは、おそらく周囲の人の声や、社会的な風潮にそぐわないから「ダメだ」と認識しているだけなんだ。
仮にあなたは、「落ち込んでばかりいる自分ダメ」と感じているとする。しかし、もし世の中の全員が超絶に落ち込み体質で、いつも暗くて、どんよりしていたとしたら、もしかするとあなたはその中では「まぁまぁ落ち込むけど、中くらいのレベルであり普通」なのかもしれない。
なんで今のままではダメだと思うのか、一度じっくり考えてみるとよいかもしれない。
自分を変えたいのは「みんな一緒」に縛られているから
日本人は「みんないっしょ」というスタンスが根強い。これはなんでかというと、戦争中に自分だけ自由にしていたり、思ったことを発言すると「非国民!」と呼ばれて迫害されてきたという過去に原因があるといってもいい。
非国民ってひどい言葉だなぁと思う。「そんなことを言う人はうちの国の人ではありません」ということ。これはしばしば一般家庭の中でも使われていた概念で「そんなわがままを言う子は、うちの子じゃありません」なんて、ごくごく普通に言われて育った人が多いのではないかと思う。
日本はそんな「みんな一緒であることがすべて」の世界だ。少しずつ変わってきてはいるけれど、まだまだ根強い。
だから「自分は、自分の思うままに生きていればいい」なんて、頭で考えても心がついていかない状態だと思う。いくら「ありのままの自分を愛そうよ」とか「自分で自分認めないと何も始まらない」なんて口で言われても、身体に、血筋に、それが染み込んでいるんだ。
自分を変えたいのは「あの人みたいになりたい」から
集団の中にいると、どうしても人と比較してしまうものだ。
筆者も、普段はあまり人の輪に入ることなくひっそりと暮らしているが、ときどきは集団の中に入る機会もある。そうすると、自分と人の違いが浮き彫りになって不安になったりする。
たとえば、若い頃に軽音楽部に入っていたことがあるんだけれど、筆者はパンクとかハードなロックンロールとかが好きで、風貌もそんな感じだった。でも、中にはめっちゃ可愛い女の子が何人もいて、歌も上手くて、男性にもモテて……という子がいる。そういう「どこからどう見てもよい評価を得る人」って、一定数いると思う。
筆者は、自分ひとりのときは「こういう自分がいい」と思ってやっていること、選んでいることも、誰かを比較対象にした途端すごく恥ずかしくなった。一度劣等感をもつと、自分の全部が相手と違うことに気づいて「ダメなんだ」「カッコ悪い」と思うようになって、苦しくなって部活を逃げるようにやめてしまった。
でもそのとき「自分もあの人みたいになりたい」と思う一方で、自分の好きな音楽やファッション、振舞いというのは変わらなかった。これって、変わりたいのに変われないとか、変わりたいのに変わりたくないという感覚にすごく近いのではないかなと、今になって思うのだ。
「自分を変えたい」のは、常に相対的

自分を変えたいと思うのは、他人と比べてしまうことや、みんなと一緒ではないからというのが一番の原因だ。
だって、世の中に生きるすべての人が、自分とまったく同じ人間だったら、絶対に「変わりたいのに変われない(泣)」なんて思うわけがない。家族も、友達も、クラスメイトも同僚も、上司も専務も、その辺のじいさんも、みんな同じなんだから。
常に比べる対象があったり、社会的に「そういうのはよくない」とか「これって、無しだよね」という風潮、固定観念、個人の勝手な意見があるからだと思う。
変わりたいのに変われないのは、そんな「相対的な比較」に何の意味もないって、自分自身がわかっているからだと思うんだ。
無理やり自分を変えて、人に足並みをそろえること。他人や社会に評価される自分になること。人から「可愛い!」「すげえ!」「最高だ!」と言ってもらえるようになること。それって本当に意味があるのだろうか?
自然に生きていて周囲そう言ってもらえたり、社会に認められたらそれはすごいことだ。でも、実際のところ自然体のまま、人生や社会に何の疑問も持たないで生きている人の方が少ないとさえ思う。
たとえ人から賞賛されて、有名になって、お金持ちになったとしても、自分を曲げて苦痛なこともがまんしてやりながら、感情も好き嫌いも無視して、自分自身を無視して成し遂げても、全然嬉しくないと思うんだ。
「変わりたい」という思いから何かを成し遂げて評価されても、満たされない

筆者は「褒められてもうれしくない」と思うことが多い。それを以前は「相手のことを信用していないから、褒められてもうれしくないんだ」って思っていた。
でも実はそうじゃなくて「自分を曲げて無理に成し遂げたものを、いくら褒められても全然嬉しくないんだ」ってことに気づいた。評価とか、周囲の声とかってのは、だいたい相対的になってしまうものだ。これだけ人がたくさんいるんだから、人と比べてちょっとすごいとか、かっこいいとか、そういう評価の仕方は多い。
そして筆者が一番、心の底から「嬉しいなぁ」って思うのは、どんな評価かというと……
「わかります」
「私と一緒です」
「まるっきり同じことを考えていました」
「自分と同じ人がいるとわかって嬉しい」
このように「自分も、あなたと同じ考えです」と言われたときが、いちばん嬉しいし、いちばん心が満たされると気づいたんだ。正直「あなたってスゴイ!」とか「素晴らしい考え方ですね!」などと『評価』されることよりも何倍も嬉しい。
だいたいそういう共感を得られるものを生み出すときって、自分の思ったことをそのまま出したときであって、頑張って論理的な解説をしたときじゃない。
だから筆者は最近「変わらなくていいのかもしれないな」と、少しずつ思うようになってきた。変わりたいのに変われないってことは、変わらないほうがいいってことなんだろう。
本当は「変わりたい」ではなく「認められたい」

変わりたいって、思うようになったのはおそらく思春期以降の話だろうと思う。
子どもの頃は「変わりたいのに、変われない」「こんな自分、嫌だ!」なんて思わなかった人が多いと思う。いつしか、自分に対して色んな人が評価をつけたり、カーストが生まれたり、いじめが起きたり、受験戦争や就職難、いろんなことに巻き込まれる中で「相対的な比較」が生まれるようになった。親が常に誰かと比較したり、批判的であったというようなことももちろん関係あるかもしれない。
でも、理由なんてどうでもいいんだ。
「あなたはそのままでいい」と認められた経験が、日本人には少なすぎる。いくら社会が変わっても、ひとりひとりが「自分はこのままで大丈夫なんだ」と思えない限り、根本的には変わらない。
だから「変わりたいのに変われない」っていうのは、今こそ自分のそのままを認めるための努力にシフトチェンジするべきときなのではないだろうか。自分をそのまま表現することで、結果的に「私も同じ」「すげえわかる」って寄ってきてくれる人が、真の審査員だ。
だから「自分を変えたい」なんて思う必要は、正直ない。自分をそのまま出して、受け入れてくれる場所や人を探すこと、そして変わりたいのに変われないのは「変わるなよ」という、自分の潜在意識からのメッセージなんじゃないかなぁと、私は考えている。/Kandouya編集部