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「自分と向き合う」とはどういうこと?愚かで弱い自分を見る”怖さ”

今こそ、自分と向き合うときだ。

自分と向き合わなきゃだめだよ。

そんな「自分と向き合う」という言葉、そこここで見聞きしませんか?

でも、自分のことなんて自分がいちばんよくわかってる。それに、自分の何と向き合えばいいのかわからない……と感じることもありますよね。

この記事では「自分と向き合う」ということは、具体的に自分のどこを見るのか、何とどう向き合うのかをはっきりさせてみます。

「自分と向き合う」とは何か?やたらと聞くけど、具体的に何をすることなの?

自分と向き合うのは、かなりつらい作業です。自分の生い立ちを振り返るとか、自分のインナーチャイルドを見つめるとか……そんな耳障りのいいことではないと、私は感じています。ただ、苦しい作業だからこそ、その先に「楽」や「喜び」が待っているのは、私の体感的に絶対といえます。

無意識のところに気づくこと

「そんなつもりはない」

そんな無意識でやっている行動や発言に気づくことが「自分と向き合う」内容のひとつだと考えています。

人は、誰かを傷つけたり自己中心的になっていたりしながら生きているものです。どんな人も、虫も殺さないか弱さと繊細さだけで生きているなんてことはありませんよね。

誰しもが、ズルいことや自己中心的なこと、自分を守るための言動、責任転嫁……本当にいろいろな知恵を働かせながら生きているものです。そのほとんどは「自分を守るため」の言動であり、防衛本能です。

道を歩いているとき、踏んだら転びそうな石や側溝をよけながら歩いています。でも、意識して「私は身を守りながら歩いているのよ」なんて思わないわけです。

でも、こうやって言われてみると「確かに、そうやって歩いているかも」という自覚があったりする……無意識と意識のちょうど真ん中くらいの位置にあるように、私は感じます。

ただ、忙しい毎日の中ではその「自分を守る無意識の行動」に対して、目もくれないわけです。

それは、ごく自然な事でもあるのですが、人生においてその「無意識の言動」が自分や人を苦しめる理由になっていたり、大きなヒントになったりすることがあるのです。

見たくない自分を見ること

無意識の言動にも通じますが、自分が自覚ナシにやっていることや「そんなつもりはない」と思っていたことが、人を傷つけていたり、自分で自分の首を絞めていたりする。

それに直面することや、真っ向から向き合うのはとても怖いものです。見たくない自分を、しかと見るわけです。

「そんなつもりじゃない」という自分の意識と、無意識的に自分を守って人を傷つけていることのギャップ。そこに気づきかけた瞬間ってとても怖い

するとそこで

  • 怒り
  • 焦り
  • 不安
  • 恐怖

などが襲ってくるんですね。

ここで、そのネガティブな感情から逃げちゃうと、同じことの繰り返し、振出しに戻ってしまうので自分と向き合いきれていない……ということになると私は考えます。

自分の愚かさ・醜さ・弱さを認めること

見たくない自分とは、簡単にいうと、愚かで、醜くて、弱い自分です。

誰の中にも、思い出したくない過去や、つらかったできごと、恥ずかしくなるようなこと……ネガティブな体験があるはずです。でも、それを時が経って思い返してみると「自分も甘かった」「弱かった」「もっと他のやり方があったのではないか」なんていう風に思ってしまうこともあると思うのです。

そんな、愚かで、醜くて、弱い自分をきちんと「そんな自分が、あの頃のあそこにいたな、そしてそうしなければ生きられなかったのだな」と認めることが、とても大事だと考えています。

自分の嫌な部分に向き合うことは、自分を否定することではないよ

嫌な自分に向き合うことはとてもつらいんです。見たくもないし、今まで抱いてきた生きづらさも、怒りも、何もかも結局自分のせいだった、自分にも落ち度があった……というように落胆することもあるんです。

でも、それが「人間」であり、誰しもがそういう部分をもっているのです。

自分が自分のままであっていいというのは「いいところ」だけではなく「醜く、愚かで、弱い自分」も、いていいしあっていい。そうしてきたからこそ、今ここに生きているのだと受け入れることなのではないでしょうか。

だから、嫌な自分に直面しても「自分はダメな人間だ」と批判や否定に走って、歩みをやめないでほしいのです。自分の弱さに向き合うのは、この先の人生や自分の人間性をワンランクアップさせるためであって、自分をいじめるためではありません。

なぜ、自分と向き合うことが必要なの?

では、どうしてそんなにつらくて苦しい思いをしてまで、自分と向き合わなければならないのでしょうか。今苦しい思いをして自分の愚かさや弱さを受け入れるのには、大きなメリットがあると痛感しています。

自分から逃げ続けると、一生苦しいまま。どんどん苦しくなる

先に、人は「無意識の言動」で自分を守っているというお話をしましたよね。

無意識といっても、指摘されれば「そうかもしれないな」と認識できることもあります。でも、やっぱりここで「そんなことない!」「私は悪くない!」「私ばっかり苦しい!」という自己愛が強すぎてしまうと……

そんなつもりはないのに、人生がどんどん苦しくなっていくんです

原因がわからないまま、人生が思い通りにならない。頑張っても頑張っても、楽にならない

楽にならないどころか、どんどん険しくなったり、不安が強くなったり、誰も周りにいなくなったりするのです。

「他人に嘘はつけても、自分に嘘はつけない」と、よく言われますよね。それってどういうことかというと、自分が自分の弱さや愚かさから逃げていることを、心の深~い部分の自意識は知っているからなんですよね。

人のせいにしない、最強の自分になれる

自分の弱さや愚かさ、醜さに向き合い、それをしっかり受け止めることができたら、不思議なことに他に怖いことがなくなるのです。

だって、自分の落ち度を棚に上げて人や環境のせいにしてきた自分ほど、拒絶したいものはないからです。

人を批判すること、誰かのせいにする事は簡単ですし、もちろん「すべてあの人のせい」「あの環境のせい」「あのときあんなことさえなければ」と怒りをもつことも、人生には必要です。

自分を責めやすい人は「自分は悪くない」と受け入れてあげることも、非常に大切です。

でも、それだけでもダメなのです。

ずっとそれを続けていると、人生は過去の出来事や、他人のせいで自由にならないまま。自分の内側ではなく「外側」に要因を置いているからです。

ずっとずっと見ないようにしてきた自分の醜さに、真っ向から向き合って恐怖に突入していく。そうすると「あんなに怖いことに、自分から突っ込んでいったのだから大丈夫」という、絶対的な自信が生まれるのです。

絶対的自信をもつには、何かを成し遂げたり、他の誰かから褒められたり、お金を稼いだりしても、ダメなんです。

自分しかわからないことに対して、逃げずに向き合い、内省すること。

それができたら、他に怖いことなどありません。誰にも強制されず、自分自身で決めて、自分で恐怖に突っ込むという最強の心ができるのだと私は感じています。

物理的な逃げと、心理的な逃げ

自分から逃げるな……というような意味のことをずっと書いてきましたが「じゃあ、過酷な環境でもそれに耐えるべき?」という疑問に対しては、NOと答えます。

職場環境が劣悪であるとか、何度チャレンジしてもできないこと、身体が拒否反応を起こして心身の不調になること……このような状況では、物理的に逃げるということが必要です。

身体が悲鳴を上げたり、メンタルが不安定になったりするのは、一種の自己表現だと考えています

「本当は嫌だ、逃げたい」と口に出して言ったところで、それが社会的にまかり通ることばかりではありません。人間関係の中で「あなたのことが嫌いなので離れます」とスパッと言えたら、誰も悩みません。

ただ、さまざまな形で自分の本心が出てくるのです。

それはときに原因不明の体調不良やうつ、適応障害といったメンタル疾患だったりする可能性も大いにあると、私は考えます(あくまでも一個人の意見です。)

自分にとって害になり得るものから物理的距離をとることは、自分を守るためには有効ですし、いちばん手っ取り早い方法解決策ではあります。

しかし、心理的に何かから逃げている場合、環境を変えたり人間関係が変わったりしても、状況は一向に良くなりません。同じことの繰り返しだったり、自分自身にとって大事なことの選択を「外」に委ねていたりするのかもしれない。

自分が何から逃げているのか……というのは、根気よく考えていれば、いずれぼんやりと自覚が生まれてくるものかもしれません。

自分と向き合った数だけ、人は楽に、幸せになる

自分と向き合うというのは、安易にいろいろなところで使われますが、とても厳しいものだと思っています。

修行のような感じかもしれませんね。

ただ私自身、本当に人生をよりよくしていきたいと思っているし、自分が納得できる自分でいたいという感覚が強くあったので、15年以上に渡って自分との対話を続けてきたように思います。

もちろん、時には人や環境のせいにして社会や他人に怒りをもっていたこともありました。善悪の正しい区別もつかず、ひどい人間だったこともありましたし、今も「あぁ、自分って醜い」と思って顔を覆うこともあります。

でも、それは決して自分をいじめるためではなくて、この先シンプルに、そのままの自分で生きられるようになるための修行だと思っているんですね。

周囲には「考えすぎでしょ」「そこまでしなくても……」という人も、少なくありません。でも、愚かな自分を隠して生きるよりも「愚かな自分もあっていいのだ」と共存しながら生きるほうが、よっぽど気が楽だなぁと感じているのです。/夏野新

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