
キリルBalobanovに
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世の中には、「強いよね」「強くていいよね」と言われるタイプの人と、逆に「弱いよね」「そんな弱くちゃだめよ」と言われるタイプの人がいる。筆者はよく「強いね」と言われる方の人間だ。
でもそこで、ふといつもモヤっとしている自分がいることには、もうずいぶん前から気づいていて、さらに、時々自分をさも分かったような顔をした人が「あなたって本当は弱いよね」と言ってきた時も嫌悪感を感じている。
あなたはどちらのタイプだろうか。そして、実は強いと言われても弱いと言われても、どっちでも腑に落ちずにモヤっとしているということはないだろうか?どうしてこういう気持ちになるのだろう。
「強い人」「弱い人」という謎の分類にうんざりしている
正直、もう強いとか弱いなんて、いちいち「1人の人」に対して決めたりイメージづけたりすること自体に筆者はうんざりしている。辛いことがあっても耐え抜ける人は強くて、何かあるとすぐ落ち込む人が弱いんだ、というありがちな想像も浅いと感じているのだ。だから、強いと言われても弱いと言われてもモヤモヤするのは、きっとその言葉自体が無意味で、受け答えに面倒くささすら感じているから、なのだと思う。
強さの中に弱さや繊細さを内包している、弱さの中に強さや意思を内包している、どんなに言葉にしようとしても語れないのが人間なのだから。だからこそ、「人から弱いと言われて傷ついているあなた」には、そんなこと全く気にすることないし心配しなくていいよ、と伝えたい。
そして「強いよね」「強いよね」と言われる人が、それを言われるほどにどんどん弱みを見せられなくなっていることになぜ人は気づかないのだろう?と疑問だ。そういうことを気軽に言うそこのキミこそ、その人を強くあらねばと追い詰めていることもあるんだよ、と。
「弱さ」に対する負のイメージはなかなか抜けない
「弱い人」という言葉には、どうしてもプラスのイメージが湧いてこない人が多い。メンタルが弱い、身体が弱い、頭が弱い、力が弱い、、、など色々な弱いに対しての表現があるけれど、「いい意味で」言っている人はほぼいないのではないか。だから「あなたって弱いね」と人に言われるといい気がしないし、嫌味なわけ?と思ってしまうはずだ。
しかし、本当に重要なことは「メンタルを強くする」ことではなく、「メンタルが弱いんだよね」と当たり前に言えない環境が常にあることなのでは?と私は思っている。
人は共感のあと、さらに受け入れ態勢になると笑い始める。「そういうところが、なんか面白いよね」と言えたなら全肯定かもしれない。なんのために、いわゆるメンタルの弱い人が強くなろうとするのか。心から自分でそうしたいと思っていて自分のためならばいいけれど、浅い考えの誰かに「強くなれ」と言われるからとか、弱い自分が恥ずかしいなんて思っているなら、それって、全然違うような気がする。
そういうことじゃなくて、弱さも全部「そうなんだ」と笑ってくれたなら、それが弱い人の「強み」となり、これからの「勇気」に変わっていくのだと思うから。実際、「精神的に弱いこと」なんて、大した問題じゃない。
第一、人の弱さを面と向かって指摘することしかできない人よりも、自分の弱さを自覚して悩んでいる人の方が、よっぽど勇敢だなと思うのだ。人に言うのはカンタンで、自分と向き合うのはとても難しいのだから。
誰かのことをたった一言で「総括するな」

Andriyko Podilnykに
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「あの人はこうである」「この人はこんな人である」なんて、本当は誰にも語ることはできない。語っていいのだとしたら、本当に本気でその人のそばにいて、どんな場面も一緒に共有し乗り越えてきた人だけだろう。
よく「○○を一言で表すと?」なんて質問があったりするけれど、そんなことはできるはずがない。だから私は安易に人に「強いね」も「弱いね」も言ったりしないし、自分も言われたくはない。
むやみに誰かをイメージづけることで、思った以上に誰かを傷つけたり苦しめたりすることがある。私も「強い人だね」と言われるたびに、「そんなに強くはない」と感じるし、逆に「弱いね」と言われると「これでも色々乗り越えてきてんだよ」と思ってしまう。自分なりのちっぽけな意地やプライドだってある。
だからどんな人でも総括するようなことは言わないで、決めつけないで、わかったような顔をしてはいけないのだと思うのだ。/kandouya編集部 森花