何で休みたいの?学校の何がそんなに嫌なの?
小学校4年生になる筆者の息子は、ときどき原因不明の腹痛や体の痛みを訴えて学校を休みたがることがある。前日もいつもどおり就寝し、学校を休んでもいいと許したあとは徐々に元気になっていく息子。このような日が、しょっちゅうあって、月に1回だったのが2回、3回、毎週……と徐々に増えていた。
正直「どうみても仮病だ」と言わざるを得ない状況。回数が増えれば増えるほど「休みグセ」「サボりグセ」と大人は思ってしまう。でも、それは休みグセでも怠けたい気持ちでもなく、40分間の登校時間に原因があった。
またいつもの仮病がはじまった
週の終わりの金曜日、息子が朝「ちょっと足が痛い」と言い出した。起こしてもなかなか起きず、支度も遅い。明らかにいつもの、学校に行かないときのパターンだった。なんとか行く準備ができても、玄関まで行って「メガネがない」「メロディオン忘れた」と言い、しまいにはトイレをもようした。完全に出発が遅れ、私もついつい「もうこんな時間だけどいいの?」と少し急かしてしまった。
すると「さっきより足が痛くなってきた」と、わざとらしく言い出す。半べそをかきはじめたが、車は夫が既に乗って出かけてしまったため、送って行くにも足がない。私は仕方なく「遅れてもいいから、ゆっくり行きなさい」とだけ声をかけ、息子は家を出て行った。
それから10分後、息子が帰ってきた。雨で転んで水浸しになったと言って、玄関に立っている。とりあえず着替えさせて、いっしょに学校まで歩いて行くことにした。息子によれば「足が痛すぎてうまく歩けなくて転んだ」という。でも、起きたばかりのときは普通に歩いていたのを知っているし、転んでしまうほど足が痛いようにはどうしても見えない。なにしろ、足が痛いというのはよく使う口実だったし、学校を休めば治ることもわかっていた。それに加えて、家の目の前の側溝でつまずいたと言うのに、そこまで10分もかかるのはおかしい。色々不自然な点があったので、またいつもの仮病だとすぐに判断した。
少しでも気持ちが落ち着けばと思い、一緒に歩いて学校まで行くことにした。下の子も連れて、3人で道を歩く。雨の中、登校時間外の通学路に3つの傘が揺れている。車の通りの多い道だから、たくさんの人の目に触れた。知人に会って「どうしたの?」と声を掛けられることもあり得る状況だ。息子はわざとらしく足を引きずって、弟よりはるかに遅い足取りで歩く。私は数歩歩いては息子の方を振り返り、また数歩歩いて振り返りを繰り返した。
学校まではまだまだ遠い。でも息子は、亀のような速度でしか進まない。私はなんだか途中でバカらしくなって「こっちから、家に帰ろう」といって、自宅の方へ抜ける細道へ方向転換をした。すると、息子の顔つきが変わる。「え?本当に?いいの?」という明るい顔になり、目線を上げて歩き始めた。試しに「雨が強くなるから急ごう!」と言うと、息子もさっきより速いペースで歩き始める。家に帰ればもう、別人だ。すっかり足の調子もよくなったので「お母さんと一緒に勉強する」と、国語の教科書を開いた。
登校のゴールデンタイム
息子の通う小学校への通学路には、朝7時5分から7時45分までの40分間、保護者が交通安全の旗を持って見守り運動をしている。全国の小学校でも、朝の交通指導がおこわなれているものと思う。
我が校区では、だいたい7時10分ごろから徐々に通学路に生徒が増え始め、7時30分を過ぎると歩く児童の数が急激に減る。集団登校を実施していないため、この40分間の間に各自登校しましょうという決まりになっているのだ。防犯上の都合や、交通指導の見守りにより交通事故も未然に防げるという理由だ。40分間のうちでも、登校児童の数がもっとも多いのが10分~30分までの20分間。登校のゴールデンタイムである。
「先生、朝は間に合っていますか?」私は面談の度に、担任の先生にそう聞いていた。朝起きるのが苦手で、支度のペースも遅い。だから、家を出るのがギリギリで毎日心配だった。担任の先生からは「確かにギリギリなことが多いですが、遅刻扱いにはなっていません。もし本当に支障が出るようなら、お知らせします」と言われていたから「それならば、少しくらい遅くてもいいか」と大目に見ていたのだ。
ただ、息子は完全に、登校のゴールデンタイムである7時10分~7時30分の時間を過ぎて歩くことが多くなっていた。息子は家を出る時間が遅くなればなるほど、学校に行くのを渋る日が増えた。息子が学校に行きたがらない日に共通することは、「人と同じ時間に行動できない自分」が目立つせいだったのだ。
遅い時間に登校しているのを、誰かに見られるのがつらかった
「なぜ、家の前で転んだのにあんなに時間がたってから帰ってきたの?」
その日、落ち着いてから息子に聞いてみた。家の前で転んで濡れたのに、なぜ10分もかかったのか知りたかった。私は、学校に行きたくなくて、家の前で座っていたか、庭で遊んでいたのかと予想した。でも、違った。
「右の道から行こうとして、途中まで歩いた。でも、そっちから行くとたくさん人に会うから、戻ってきて家の左側の道から行こうと思った。」とても言いにくそうに、下を向いて小さな声で言った。
息子は、遅い時間に登校しているのを誰かに見られるのが嫌だったのだ。近所には卒園した幼稚園があり、知っている人もたくさん通る。それに、旗振りの交通指導をする保護者にも、当然会う。遅い時間に歩いていると「早く行きな!間に合わないよ!」「どうしたの?遅れちゃうよ?」知らない人、知っている人に関わらず、声を掛けられるという。それが、嫌でたまらないのだそうだ。
さらには「早く行きなさいよ、私仕事に行かなきゃいけないのよ!?」と、強い言葉を投げかけてくる保護者もいたそうだ。
知らなかった。何も、知らなかった。息子が家のドアを一歩出たら、私は弟の世話と家事と、仕事のことで頭がいっぱいだ。この子が毎日毎日感じていた「登校時間の風景」なんて、まるで考えていなかった。
「人と違う」「規則を守れない」自分への不安
「教室に遅れて入っていくのも、とても怖い」と言う。だから、通学時間を過ぎてしまいそうなときはもう、どうしても学校に行きたくない。息子の言い分はそういうことだった。
遅れて学校に行くのが不安なら、親の私もついて行って、軽くおしゃべりでもしながら行けば気持ちが楽になるのでは。そう思っていたけど、そんなことは逆効果だったのだ。親が一緒について歩くことなんてもっての外。教室までついていくなんて、絶対に嫌。先日に至っては、弟付きで大通りを歩いた。親子3人で大名行列のように歩くのは、息子としてはもっとも嫌な状況だっただろう。車通りの多い道を「規則を守れないダメな僕」を晒しながら歩くようなものだったのだ。完璧主義なのだろう、私によく似ている。自分のダメなところを隠し、知られたくないのだろうか。
思えば、私も小学生の頃、朝寝坊したときは学校を休みたかった。遅れて行くくらいなら、休みたい。それは、サボりたいわけではなくて「いつもと違う」状況にひとりで置かれることが怖かったのかもしれない。規則の時間を守れなかった自分を多くの人に見られ、話題にされるのが怖かった。特に私は、小学生の頃から電車通学だったから、長い時間「みんなと同じ時間に行動できていない自分」を感じながら過ごさなければならなかった。電車に揺られながら、そこら中に立っている大人がみんな、自分をジロジロとみて「なんでこんな時間の電車に乗っているんだ?」「みんなと同じ行動ができない子なのか?」とヒソヒソ言われているような気持になったことを、急に思い出した。
教室に入るのも確かに嫌だった。シンとした昇降口。階段に聞こえてくるリコーダーの音。教室に入ったらどんな顔をして、なんと謝ればいいのだろう。先生は何て言うかな。友達に「なんで遅れたの?」って絶対に聞かれる、恥ずかしい。一度に数えきれないくらいの不安が押し寄せる瞬間だ。ずっとずっと忘れていたけど、息子の気持ちが痛いほどよくわかって、申し訳なくなった。私は甘い親なのだろうか。
子供の心は、大人よりも複雑でぐっちゃぐちゃだ
「学校に行きたくない」という言葉は、いちばんハードルが高い言葉だという。息子のように、まだ年齢的にも幼く、自分の気持ちをはっきり表現できなかったり、自分で自分の気持ちすらわからない年齢ではなおさら「学校が嫌だ」という言葉は出ないのかもしれない。
足が痛い。お腹が痛い。具合が悪い。なんでもいいからそれらしい理由をつけて、親に訴えるのだろう。でも、その一言の裏にこんな事実や気持ちが隠れていたなんて思わなかった。学校に行きたがらない理由を、私なりにずっと考えていたのに、全部見当違いだった。息子は「登校のゴールデンタイム」を逃すことだけが、気がかりだったのだ。しかし、低血圧で朝なかなか起きられないし、朝ご飯はちゃんと食べたい。でも、ついつい弟と話したり遊んだりしてしまって支度も遅くなってしまい、持ち物を忘れて取りに戻ったりすることもある。そういうのも全部、自分でわかっているんだと思う。自分の落ち度のようなものを、感じている部分もあるのかもしれない。
でも私はどうしても「朝起きるのが遅いのも、支度が遅いのも、忘れ物に気付くのが遅いのも、全部自分のせいだろう」とはどうしても言えない。私だって、朝はいっぱいいっぱいだ。人にダメなところを知られたくない気持ちも、100点か0点かどちらかになってしまう気持ちもわかってしまう。これが甘やかしなのか、開き直りなのかもわからない。
ただ、子供の心とは、大人の想像の何倍も複雑なのではないか。「子供は素直」「男は単純」なんていうのも、目に見えている部分だけ。本当は、たくさんの不安とプレッシャーと甘えで、ぐちゃぐちゃになっているのだろう。そしてそれを見逃した大人が、そんな子供の心をグサッと突き刺したり、晒しものにしたりしてしまうことも、たくさんあるのだろう。/夏野 新