子供が苦手?なんで「素敵なお姉さん」になれないのかな

子供は可愛い。言うこともやることも、すごく可愛い。そんな可愛い子供に「お姉ちゃんと〇〇してあそぼっか!」「こらぁ~待て~こちょこちょこ!」ってやってみたい……
でも現実は、何もできない。
カフェで接客業をしていたとき、子供にジュースやアイスを渡すことが度々あった。
「ふ、ふくろに入れましょうか……?」
「レシートは、ご、ご利用ですか……」
とまごまごしてしまう。となりのレジでは、私よりも若い女性スタッフが「大丈夫?落とさないようにね~!ありがとう!」「また来てね、いっぱい食べてね~♪」と、満面の笑みで声掛けをしている。
あぁ、いいなぁ。私もあんな風に子供に接したい!憧れのコーヒーショップのお姉さんになりたい!夢は保育士です!子供が大好きです!と胸を張って言える女性に憧れていた。
思春期頃からは、この期に及んで自分が小さな子供への対応方法がわからないという劣等感を正当化するために「子供は嫌い」「うるさいから無理」などと見栄を張ってきた。でも、実際は子供に好かれるお姉さんになりたい。ゆくゆくは子供に人気のおばちゃんになりたいのだ。
子供って、目上の人みたいな感じがする

歌手や俳優として活躍する、星野源のエッセイ「そして生活はつづく」の中に、こんな一節がある。
私は子供、正確に言うと生まれたばかりの赤ん坊から小学校高学年あたりまでの子供に会うと、その人を「先輩」、もしくは「同年代」として応対してしまう癖がある。対峙したとたん、どう頑張っても上から目線でその年齢の子供を見ることができなくなる。なぜだか彼らや彼女らに見つめられると、同じ目線、もしくは下からの目線で接してしまい、自分のすべてを見透かされている気がして嘘がつけない。(そして生活は続つづく/星野源)
そう!まさにこれなのだ。知らない子供を目の前にしたとき、私はどうしても目上の人や同年代の人と同じような感覚に陥る。
年齢を盾にして「年上のお姉さん」を気取ることができない。子供だからっていきなり敬語で話していいのか?いきなり「かわいいね~アイスおいしい?」なんて言ったら、相手の人はどう思うのか!?子供の目からは私がどう見えているのか、まるでわからないのだ。
「何!?この人知らない人なのに突然タメ口、しかもいきなり個人的な感想を求めてくるなんて、こわい……」って思われるんじゃないか……と不安だ。
例えば、カフェの隣の席に座っている同年代かそれより年上のサラリーマンの男性と目が合って
「あなた、男前ね。そのコーヒー美味しい?」
といきなり聞くのと同じレベルなのだ。そんなの、考えただけで死にたくなる。けっして大げさではなく、私の感覚としては子供に話しかけるのもこれと同じくらい難しいことなのだ。
つまり、私は子供が苦手なのではなく、ただの人見知りをしているだけ。相手が子供だろうが大人だろうが、よく知らない人に自分から話しかけるのが苦手なのだ。多分、相手が小学校1年生の子供でも、毎日一緒にいて「おはよう」「バイバイ」からはじめて、「う、うちでゲームしない!?」の段階を経て、翌日の学校では人目を避けて「き、きのうは楽しかったね!」というやりとりをクリアしなければならない。相手が大人だろうが子供だろうが、徐々に間柄をつめないとうまく接することができないのだろう。
子供が苦手なのは、未知の生物だから

思えば小さいころから、自分より小さな子が苦手だった。でも、子供が嫌いってわけでもなくて「一緒に遊んであげたい」「どんな風に接したらいいのか?」という興味はわく。私はひとりっこで身近に小さな子供がいなかったし、シワだらけの新生児や、よだれを落としながらほふく前進をする赤ん坊を、ほとんどこの目で見たことがなかった。
小学生の頃は、NHKの赤ん坊が出てくる教育番組をじっと見ていたこともあった。正直な話、この頃は「赤ちゃんを泣かせてみたい」という願望も抱いていた。
例えば、寝ているのを起こしたり、ちょっと手をつねったりしてみると赤ちゃんは泣くだろうと予想する。赤ちゃんを笑わせるには、抱っこしたり、いないないばあをしたりするというイメージは簡単にわいた。でも、赤ん坊はどういうときに泣くのか、という情報が子供の私にはとても少なく、不確かだった。予想したことを試してみたかった気持ちはあったけど、残念ながらその機会は訪れなかった。
どんな風に泣くんだろう。何をすると泣いて、何をすると笑うんだろう。興味はあったのだけど、おそらく何も知らなかったから『未知の生物』のような感じがしていたんだと思う。
赤ん坊だから、子供だから苦手なんじゃなくて、未知だからちょっと怖いだけ。知らないものは、幽霊でも、宇宙人でも、赤ん坊でもでも子供でも、みんな怖いのだ。
子供嫌いには、何か正当な理由があるはずだ

自分自身が子供で、まだまだ大人になりきれていないのか、子供でいたい気持ちが強いのかわからない。でも、子供が苦手な理由って「子供を可愛いと思えない」とか「子供はうるさくて汚すからきらい」とかそういうものではない。
子供が嫌いでもいいんだ。だって、子供はすごくストレートな表現をするか、もしくは表現が下手すぎて内に秘めるかのどちらかになることが多い。だから、よほど親しくない限り接し方が難しい。難しい数学の問題が嫌いなのと同じだ。
私みたいに、相手の年齢を問わず人見知りを発揮してしまう人もいれば「生理的に受け付けない」「子供の声を聞くのも嫌」というレベルの人までさまざまだ。でも、それぞれ何かしらの原因があるのだ。別に原因を特定する必要はないし、子供が嫌いでも苦手でも、人として歪んでいるとか、女性としての魅力に欠けるなんてこともないのだ。
「子供が嫌い」に反論してくる女子を交わす

自分の中で「私は子供が苦手なんだ」と納得しているにも関わらず、それをポロっと漏らすと全力で反論してくる人は厄介だ。
「え!?なんで~こんなに可愛いのに!」
「子供ってさ、真っすぐで嘘つけないから可愛いんだよね♡」
さまざまな持論で、子供が苦手という事実を否定してくる。可愛くて、真っすぐで嘘をつけない生き物だなんて突き付けられたら、すごすぎて洗礼でも受けてから対面しなければならないような気がするじゃないか。なにはともあれ、子供は可愛くてキラキラした、この世の神秘の賜物であるという意見を、かなり強めに押し付けてくる女性はかなり多い。
この場合『子供好きの家庭的な明るい人』と『子供が苦手で根暗な人』という格差を突き付けられるだけでなく、子供が嫌いであることをいろんな角度から否定されるという二重の苦しみを味わうはめになるので、この手の話が出るときは相手に合わせて軽く流してしまう。
そんな子供嫌いの私は2児の母になった

それからいろいろあって、私は2人の男児を育てている。子供が苦手なので、最初は不安でぎこちなかった。
お腹に話しかけるとか、お腹の赤ん坊への手紙を書くとか、そんなことこっぱずかしすぎてできない。布団をかぶって寝ている人に
「早くでてきてね♡」
「待ってるよー!」
なんて、私は言えない。まだ顔も知らない人に向かって「ママは待ってるよ」なんて、言えない。そもそも、自分のことをママと呼ぶことすら恥ずかしかった。妊娠中からずっと、お腹の赤ん坊への愛着感がよくわからなくて、とにかくここに『こわれもの』が入っているとしか思えなかった。
赤ん坊が生まれても、最初はただ泣くばかりで、笑うわけでもなければ反応するわけでもない。赤ん坊には「積極的に話しかけましょう」「ママの声を聞かせたり歌ったりして、五感を刺激しましょう」と、どの育児書にも書いてある。でも、私はやっぱり
「また泣くんか……」
「あぁ、オムツが……」
みたいに、ひとりごとなのか赤ん坊に言っているのかもわからないような声かけしかできずにいた。
今、そのときの赤ん坊は10歳になる。毎日のように友達を家に連れてきて、楽しそうに大騒ぎしている。私は相変わらず子供が苦手だ。だから、息子の友達がきたときは、寝室にパソコンをもっていって籠る。そんな自分が情けない。もっと明るく「いらっしゃ~い!」「ほら、これみんなで食べな!」と肝っ玉母さんみたいに、振舞いたい。
でも、何年経ってもうまくなれない。でも、子供たちはそんな私を変なお母さんだねとは、言わないようだ。
ときどき学校や外で顔を合わせれば
「〇〇のお母さん!」
「よお!」
と言って、向こうから話しかけてくれる。私は「お、おぉ……」と小さく手をあげるけど、みんな私に結託のない笑顔で声をかけてくれる。同級生か、先輩かと思うほどにたくましく、優しいのだ。やっぱり子供は、目下の人間なんかじゃない。
子供が苦手な人は、子供と一緒に伸びる人

私はおそらく、まだまだ中身が子供なんだろう。『子供』とひとことに言っても、定型はない。その子ひとりひとりによって、接し方のコツやポイントがまるで違う。だから「子供にはこう接しよう!」というものが当てはまらないのだ。すると、どうしても目の前の人間のへの未知からくる『人見知り』が出てしまうだけなのではないか。
子供が苦手でも、嫌いでも、だからといって結婚や子育てに向いていないわけでもない。そういう人の方が、逆に子供目線で物事を考えたり、相談に乗れたりすることもあるのかもしれない。子供と一緒に伸びていく、まさに同年代の友達みたいになれるのかもしれない。
でも、やっぱり親や大人としての顔やするべきこともきっとあるんだろうし、まだまだ子供との接し方はよくわからない。子供って何なのか、よくわからないからこそ、子供と一緒に背高く伸びていけばいいのかもしれない。/夏野 新