
理屈っぽさと賢さは、ときどき一緒くたにされてしまいますが、両者には大きな違いがあります。
理屈っぽい人は、めんどくさい人。賢い人は、他人の興味を引く人です。
賢い人も、その頭の中にはたくさんの「理論」がつまっていますし、心の中にはものごとの本質を刺すような視点をもっています。一方で、理屈っぽい人も頭の中には知識や理論が詰まっていることに変わりありません。
具体的に、どんなところに違いがあるのでしょう?
理屈っぽい人は、相手目線がない人

理屈っぽくてめんどくさい人は「相手目線」で話すことができない人であったり、知識ばかりが多くて行動が伴っていません。
自分なりの理論や知識を、ひけらかしてしまう
自分の理論や知識をたくさん持っているのはいいことですが、それをどこでどう使うかが非常に大事です。
例えば、誰かの話の腰を折って「それって、本質的じゃないよね?〇〇ってことは△△って意味であって、□□っていう意味で使うのは間違いなわけで……」
といった具合に割り込んできたり、相手が欲していない情報まで話してしまうことが多いです。理屈っぽい人が会話に参加してくることで、そもそもの論点がズレてしまったり、話している人や周囲の人の気分が下がったりすることもあります。
たとえ、言っていることが正しかったとしても、自分の知識や正しさをひけらかすように話されるとめんどくさいし、場の空気も乱れます。
理屈っぽく論破してくる人は「相手の話を受けて、意見を言う」のではなく「ここぞとばかりに自分の知識や主張を披露する」部分があるのでは。知識使う場所を間違えています。
話が長い
理屈っぽくて嫌われてしまう人の話は大抵長いです。会話には、それぞれ「自分のターン」があり、自分と相手の話す割合は均等でないと、お互いに楽しい会話になりません。
誰かが言ったことに対して「それってさ……」と割って入ってくる場合、多くがその人のターンが長すぎるのです。先ほどの「相手目線がない」ということにも通じていて、自分が話したいことを話したいように展開させてしまうので、周囲の人から「めんどくさい」「うっとおしい」と思われても当然なのです。
行動が伴わず、筋が通っていない
理屈っぽくてめんどくさい人の特徴として「理論ばかりで行動が伴っていない」場合もあります。行動や結果があってはじめて、この人の言っている言葉は生きてくるものです。
筋が通っていない理屈のことを「屁理屈(へりくつ)」といいますよね。
何もやっていない人がいくらそれらしい理論を並べたところで、説得力はまるでありません。言葉は「何を言うか」ではなく「誰が言うか」であるとされるのは、筋が通っていないために信憑性がないためではないでしょうか。
賢い人は、相手に必要な情報だけ与える

では今度は、賢い人の特徴や長所を考えてみましょう。
常に相手目線に立って話せる
賢い人は、いくら知識があってもそれを「相手のため」に使うことができます。
- 自分の知識は質問されたときだけ話す
- 相手の知識レベルを探ってから話す
- 要点だけ抽出して話す
このように、「相手が必要としない情報」をなるべく出さないようにしています。聞かれたことや、相手が知りたいと思うことに必要な情報を、要点を絞って話すのです。
だから、ダラダラと長い理屈を並べることもないし、その場の空気や話の流れをぶった切るようなことはありません。
評価をもらうための理屈ではない
賢い人が持っている理屈は「物知り!」「賢い!」と他人から言われるための材料ではありません。
自分が、自分で納得するために得た知識です。他人に評価してもらうための知識ではないので、あえて長々と話したり、誰かの話の腰を折ってまで披露する必要はありません。
正論ではなく「感情」に注目できる
賢い人は、正論を押し付けるのではなく「感情」にもちゃんと注目することができます。
理屈っぽい人はどうしても「自分の正しさ」や「知識の深さ」をアピールしてしまうので、感情が置いてけぼりになってしまいます。
「理屈はわかるけど、それができないから考えているのに……」といった感じで、話している相手を疲れさせたり、返事に困らせてしまうわけですね。
だから、理屈を話すときはそれと同じか、それよりも多く「感情へ注目する言葉や意見」を挟んでいくことが大事なのです。
人が「もっと聞きたい!」と思える話し方ができる
理屈っぽい人は周囲に「もういいよ……」と思われるほど話すのに対し、賢い人は「え?どういうこと?もっと聞きたい!」と思わせるような話し方をしています。
①結論②理由③具体例の順番で話すことや、感情への配慮を入れながら話すことが自然とできています。
それは、やはり「相手目線」を大事にしているため、相手を退屈させないように、興味をもって話を聞いてもらえるように……という心があるからではないでしょうか。
会話は常に「相手ありき」であることを忘れてはいけない

知識量が多いことや、論理的思考ができていることは素晴らしいことですが、それによって誰かを不快に思わせてしまったり、げっそりさせてしまうのでは意味がありません。
たとえば、映画の感想を言い合う場面を想像してみましょう。
理屈でものを考える人は
- 物語の整合性
- テーマの推測
- 映画の評価や情報
- 解釈や意味など
こういう内容を話す人は、論理的思考をする人です。
一方、感情面でものを考える人は
- 感動した
- 泣けた、切なかった
- 気持ちに共感した
このような感想が多くなります。
このように両者の考えるタイプが、理屈のタイプと感情のタイプで真っ向から違っている場合、お互いに合わせながら話す必要があります。
理屈でものを考える人も、相手が同じように同じレベルで話せる人だったら、そのままの感覚で話していいのです。でも、「相手はどんな感想を抱いているか?」ということに注目できていないと、相手からは「理屈っぽい」「つまらない」と感じられてしまうわけですね。
「話の主役は常に自分ではない」ということを忘れてはいけないのです。どんなに自分が正しいことを言っていても、聞いている相手がどう感じているかや、何のために話をしているのかを考えて話したいですよね。
これは理屈っぽい人に限らず、どんな人でも同じです。でも、自分の理屈を披露することに快感を覚えたり、人の意見やものごとに対して「論破」するような人は、好かれなくて当然ということになります。
自分の意見や正論を堂々と述べることは、ときどき快感を覚えるものです。でも、そのときに相手が置き去りになっていないか、相手が必要としていない情報までダラダラと話していないか……という点は、常に意識しておきたいところなのです。
理屈っぽさと賢さの違いは「目的」にある
理屈っぽい人は、人との会話の「目的」を見失ってしまうことがあります。
- 議論し合いたい場なのか
- 相手がどんなタイプの人であるか
- 相手の知りたい情報とは何か
- 自分の評価のために知識を披露していないか
ここは、かなり気をつけて配慮しながら話す必要があり、相手目線を忘れていてはけっしてできないことです。
会話の中にの目的をちゃんと弁えることが「賢さ」ということになるのかもしれませんね。/Kandouya編集部