「人の気持ちを考えて行動する」って、必要なことなのでしょうか。
もちろん、人の背景を想像したり、気持ちを汲み取ることは大事です。
大事なんですが……人の気持ちがわかりすぎて苦しくなっている人や、人の気持ちに振り回されて自分軸の軸がわからなくなっている人も多いです。
むしろ、他人を軸にすることで知らず知らずのうちに苦しくなってしまう人の方が多いようにも思えてなりません。
私たちはずっと昔から「人の気持ちを考えなさい」と当たり前のように教えられてきました。
そしてきっと、大人になった今も「人はどう思っているんだろう?」「自分は人にどう思われるだろう?」と言うことを必要以上に気にしてしまいます。
もしくは、人の気持ちを考えることによって自分を抑えたり、どんな行動をとるのがベストなのかわからなくなってしまうこともあるはずなんですね。(何を隠そう、筆者がまさにそうなんですけどね)
えっ?そこまで?「人の気持ちを考えよう」の教え

先日、子ども向けの本にこんなコーナーがあったんです。
「こんなとき、君ならどうする?」
お祭りの屋台に並んでいる男の子がいて、「君がこの男の子の立場だったらどうするか?」を考えようというもの。
男の子の前には、2人組の女の子がぺちゃくちゃと楽しそうにおしゃべりをしています。
そして、その2人組の女の子の前、つまり主人公の男の子の3つ前に、浴衣姿の女の子が割り込んできた……という状況が描かれています。
自分が並んだ列に、人が割り込んできたとき君ならどんな行動をとるか? という問いがこのコーナーの大まかなストーリーです。
そして、それぞれタイプの違った意見が参考例として3つほど挙げられていて、その下に親や先生がが子にかけるための問いかけ例まで載っています。
「僕は、割り込んできた子に“ダメだよ!”と注意するよ」というA君。その下には「割り込まれたら嫌だよね。でも、言われた人はどんな気持ちがするかな?」と書かれています。
続いては「僕は、自分の前でおしゃべりに夢中になっている2人組の女の子に文句を言う!」というB君。その下には「おしゃべりに夢中になっていたせいで、割り込まれちゃったかもしれないよね。でも、言われた人はどう思うかな?」と書かれています。
そして最後に「僕は“まぁいいか”と思って何も言わないよ」というC君。その下には「ひとりくらい入ってもいいよね。でも、後に並んでいる人が嫌な気持ちになるかもしれないよ?」
と、書いてあるのです。
私はちょっと……というか、かなり驚いて「えっ!?」目を疑いました。
どうして「まぁいいか」と譲歩したのに、後の人の気持ちまでもを考えなくちゃいけないのかなぁ?と、思ってしまったんです。
確かに、割り込んだことに目をつぶった場合、後に並んでいる人は「前のヤツが注意しろよ」なんて思うこともあるかもしれないですよ。
でも、その理屈が通用するのだとしたら、そもそも前でぺちゃくちゃしゃべっている子も同時に批判を受けなければ理不尽です。というよりも、割り込みをする人が元々の原因であり、その周囲の人には自分の行動をかえりみる必要ってそこまであるのかなと疑問に思いました。
しかも、いちばん穏便な対応をしたC君が、なぜそこまで考えなくてはいけないのでしょう? しかも、そこには「嫌な気持ちになる」というネガティブなイメージの声掛け例が書かれている。
そもそも、A君やB君の「誰かに対して文句を言う」という手段をとると、確かに相手も嫌な気持ちがするし面倒なことに発展する確率は高いです。
「まぁいいか」と受け流すのは、本当に何にも気にしないか、ゴタゴタを避けるため・もめごとの苦手な自分を守るために「何も言わない」という行動を選択するパターンも多いはずなんですよ。
だって、誰しもが割り込まれたら嫌じゃないですか。
割り込まれたことにも気づかないでぺちゃくちゃしゃべっている子にも、イラっとしますよね。
でも、「相手がどんな気持ちになるか」を想像してしまうから文句が言えない場合もかなり多い。ケンカやトラブルに発展するリスクを考えたら、割り込んできた一人分の時間を大目に見る方が、かえって効率的だったりするわけです。
だから「まぁ言わないでおこう」と思うという経緯が、圧倒的に多いようにも思えるのです。
それでも尚「後ろの子が嫌な気持ちになったらどうする?」という問いかけをするのは、納得がいかなくて。
そんなの知りませんよ。知ったこっちゃありません。
後ろの子自身が嫌な気持ちになったのなら、その子が自分で文句を言えばいいのです。
子どもに対して、そこまで人の気持ちを考えて行動するように習慣づける必要はないんじゃないか……とさえ思えてきます。
「人の気持ちを考える」のは確かに必要です。でも、そういうことじゃないと思うのです。
人の気持ちを考えることと、人の事情や背景を想像することは違う

人の気持ちを考えようというのは、人の事情や背景を想像する力をつけようということだと考えています。
普通とはちょっと違う人や変わった人に対して「普通」を押し付けないということ。
悪いことをしてしまった人、自分に対して嫌なことを言ってくる人に対しても同じです。
それは、相手にも事情があるのだから何でも許せということではありません。
捉え方を変えることで、結果的に自分が楽になり、許容範囲の広い人間になっていく……
つまり、遠回りな「自分のため」です。
人に親切にすべきとか、思いやりを大事にというのは、表面的には正しいこともあります。でも、日本人はそればかりやっているし、人の気持ちを考えて最善を尽くし過ぎるからこそ「他人軸」な生き方になってしまうところがあります。
「人の気持ちを考えて言動しよう」という教えにより、人の顔色を窺ったり、同調を求めて苦しくなったりしてしまう現代人の悩みにつながっている部分は、おおいにあるのではないでしょうか。
人の背景を想像するってどういうこと?
背景を想像するとは、人や物事の一部分を切り取ることなく、その奥にある背景や事情、複雑なものがあるという前提で人と接することではないかと考えています。
人それぞれ違った個性があることや、違った事情、生活スタイル、環境、経験をもっているということを常にわかっていると、人に腹を立てたり文句を言ったりする機会はけっこう少なくなるものです。
人に文句を言わないのがいいことではありませんが、やはり自分の気持ちを伝えるのにも、伝え方が大事です。
自分の気持ちを人により伝わりやすい言い方で表現することや、波風を立てない伝え方を身に付けるためにも、相手の背景や事情を考慮することは非常に大事なんですよね。
ただ、人を思いやることで、自分ががまんしたり、飲み込み続ける必要はありませんし、それは不健康です。自分も相手も両方尊重するためにも、背景に思いをはせてみることが必要です。
これができるとキツ言い方や、攻撃的な発言をしなくて済むことも増えます。
でも「人の気持ちを考える」というのは、自分の選択によって人に嫌な思いをさせるのでは……という不安を植え付けるためのものではない。そして、自分が人に好かれるためのものでもない。
人の気持ちを考えて言動しよう、という言葉だけでは不足するものが多すぎるようにも感じました。
「人が嫌な気持ちになるかもしれない」と踏みとどまるべきなのはどんなとき?
とはいえ、人を嫌な気持ちにさせる言動をとりたくないし、人には思いやりをもって接したいものです。そして、それを子どもたちにも伝えたいと思う気持ちもあるんですよね。
筆者は「人が嫌な気持ちになるかもしれない」と思って踏みとどまるべきなのは、基本的に攻撃的な言葉や悪意をもった行動だけでいいと思うのです。
今回の本に出てきたC君のように、自分が「まぁいいか」と思って譲ったことで、他の人が嫌な気持ちになるかもしれないなんて考えていたら、キリがありません。
どんな人にも適切な対応などできませんし、子どもの頃からそういう思考ばかりしていると、どんどん自分の感覚がわからなくなっていくのではないでしょうか。(これが、いじめを目撃しているとか、明らかに悪意のある行動をとっているというような例だったらまた話は別ですよね)
人の気持ちを考えるのは、自分の選択を疑うためではない

この本の趣旨は、自分がどう思うかを親や先生に話して表現することが目的ですので、正解のないものではあります。
でも、声掛けの例がどうしても「人が自分をどう思うか」の視点が強かったり、人の気持ちを考える範囲が広すぎたりする印象をもってしまったので、今回は記事に書いてみました。
色んな選択肢や可能性を考えていくのは大切なことですが、考え過ぎてどの選択肢も選べなくなったり、自分を表現できなくなる人も多いです。
人の気持ちを考えて言動するのは、本当に正しいことでしょうか。まずは、自分の感覚や自分なりの考えを示していいということ。そして、すべての人の気持ちを想像しきるのは無理があるし、自分の行動を批判的な視点で見るクセはつけるべきではないということを前提としておきたいなと感じたのでした。/夏野新