「相手の視点に立つ」というのは、そんなに難しいことなのだろうか?
私は正直なところ、いつも「人の視点」にばかり立っていて、自分の視点をないがしろにしてきてしまった人間である。
自分はこう思うけど、相手はどうだろうか。
自分はこうしたいけど、相手はそうではないかもしれない。
自分はこれが好きではないけれど、相手はとても好きそうに見えるな……
そんなことばかり考えて生きてきた。
しかし、ふと気づくと、周囲には「相手の視点に立てない人」が非常に多かったし、今も悩みの種となる人はだいたい「自分の視点しかない」「相手の視点に立てない人」なのだ。
相手の視点に立つというのは、人生におけるすべての面で重要なことであると思う。
人の視点に立つことの大切さや、人の視点に立って物事を考えられない人について考察してみようと思う。
人の視点に立つとは、どういうことなのか?

人の視点に立つって、どういうことか。それは
「相手の属性、環境、性格など、その人に関するさまざまな情報を加味した上で、発言や提案などをすること」だと思っている。
つまり、相手のことをよく知らなければできないことだし、日ごろから人のことをよくよく観察し、総合的に判断していなければできないことなのかもしれない。
相手の状況・気持ちお構いなしの例
相手の状況やも気持ちがまったく見えていなくて「自分がどうしたいか」しかない。若い10代や20代前半くらいまでの人だったらわからなくもないけれど、いい歳になっても「自分視点」しかないという人は実に多いものだ。
LINEで気持ちを投げてくる
たとえば私の周りには、自分の気持ちや想いを、いきなりLINEメッセージなどでぶつけてくる人がいる。
その内容は、長文の熱いキモチだったり、センシティブな内容だったり、解決策がすぐに思い浮かばないような悩み相談だったりする。LINEというオンラインツールが身近な存在になってしまったのもまた悪い要因なのかもしれない。
しかし、相手が今、どんな状況で、どんな気持ちで、どんな風に過ごしているかをまるで気にせず「ドカッ!」と、投下してくる人がいるのだ。
その内容で、私が勇気づけられたり、元気になりそうなことだったら全然かまわないし、ありがたいと思う。たとえ今忙しくても、あとでじっくり読ませてもらおうと、楽しみにとっておけるかもしれない。
しかし、相手の視点に立てない人はだいたい、いつでもどこでもかまわず、長文の自分語りをドカッと送り付けてくるのだ。とりとめのない自己分析だったり、今日の出来事だったり、昔の思い出話だったり。正直なところ、twitterやブログに書いてくれないかなって思ってしまう内容ばかり。
私が子どもたちと楽しく遊んでいるときでも、仕事中でも、メッセージが入った通知が届けばとうぜん目を通す。
貴重なひとりの時間を楽しんでいても、そういうメッセージがきたことはわかってしまう。
「嫌な内容なら、返信しなければいい」
「やめてくださいと、言えばいい」
そういう声も、けっこう少なくない。
しかし、一度そういうメッセージを見てしまった以上は、どうしたって考えてしまうし「対応したほうがいいのか?無視してもいいのか?」という自問自答だって勝手に始まるものだ。知ってしまった以上、気になるし、どう対応してあげるのがベストなのかという「最善策」の検討が、頭の中で高速ではじまってしまうものだろう。
相手の立場を無視した「告白」
他にも、既婚者の人に対して「異性として好きです」と伝えてくる人も少なくない。
決まって相手は「あなたをどうこうしようってわけじゃなくて、気持ちを知って欲しかったから。伝えたかった。気にしないでこれまでどおり友達として付き合っていこう」とか言うのだ。
では、一方的に恋愛感情を告げられた既婚者の人間の気持ちはどうなるのだろうか。
相手が既婚者の自分に好意を抱いていることを知りながら、これからも顔を突き合わせていかなければならない。相手は「自分が言いたかった」という意思があるので、勝手に気まずい思いと一緒に生きていけばいい。でも、こっちに意思はないのだ。相手の勝手な「伝えたい」「言わないと後悔する」とかいう視点だけで、私たちの気持ちなど蔑ろである。
これは恋愛の告白に限ったことではないと思う。言わなくてもいいこと、心にとどめておけばいいことを、言わないと気が済まない人はとても多い。
それは「自分が言ってスッキリしたいだけ」で、相手の気持ちや視点などお構いなしである。
エネルギーを消耗してしまう人間関係
相手の視点に立てない人には
「やめてください」「迷惑だ」と言えばいいという意見も、確かに一理ある。
ハッキリものを言わない自分が悪いとか
相手が欲しいものを、こちらが察して与えてしまうからだとか。
そういうことを言われることも多い。
しかしハッキリものを言ったり、本音で怒ったりするにはけっこうな気合やエネルギーがいるだろう。平穏で、波風を嫌う、繊細な人ほど、そう感じると思う。
なぜ、こちらが、怒ったり指摘したりするためのエネルギーを、よけいに消費しなければいけないのだろう……なんてことも思う。
「人の視点にばかり立ってきた人」は、怒りを面に出すこと、自分の気持ちをハッキリ伝えることに対して、ものすごくエネルギーを使う人が多いと感じている。
相手の視点などお構いなしに自分の都合で、自分本位なことを投げてくる人に、なぜエネルギーを使わなければいけないのか?なんてことも思ってしまうのだ。
なぜ、都合のいい存在として使われてきた自分が、さらにエネルギーを振り絞って意見しなくてはならないのか疑問である。
あくまでも、上の件は一例に過ぎない。
しかし、相手のことをしっかりと知ろうとする姿勢だったり、相手の情報を踏まえた上で、どのように接するのが最善かを考える……それが「相手の視点に立って物事を考える」ということなのではないかと、私は思う。
仕事柄、少ない情報から人の意図を読み取ったり、分析したりすることは多い。それに、幼いころから親が自分に何を求めているのか、どう振舞うのが正解かということばかり考えてきた。自分の気持ちに鈍感で、人当たりよく接してしまうことも多い。だからこそ、人の視点に立てない人の「ちょうどいい存在」になりやすいのだろう。確かにそれが自分の落ち度なのかもしれない。
でも、やっぱり悔しいなと思う。
おかしい、理不尽だ、なんでいつもこうなるんだろうっていう思いは、確かにここにあるのだ。
相手の視点に立てない人は、自分と他人の違いがわからない?

相手の視点に立てない人は、自分の感覚がとても強く、自分と他人の違いがわからないのではないだろうか。
自分が仕事に燃えているときは、仕事仲間も同じ気持ちであるように思ってしまう。
自分が世の中に絶望して落ち込んでいるときは、他人も同じ気持ちになって共感し一緒に落ち込んでくれると感じている。
自分がヒマなら相手もヒマだと思ってしまう。
自分が「相手のために」と尽くしていれば、相手は「自分の為にありがたい」と思うはずだと信じて疑わない。
もちろん私の勝手な分析、ただの考察なんだけれど、相手の視点というのがすっぽり抜けてしまっている場合、どうしても「自分=相手」なのだ。
自分と他人の境界線がない……むしろ、他人の気持ちや視点という概念すら、ハッキリしていないことだってあるかもしれない。
相手の視点に立てない人とは、話が通じないことが多い

相手の視点に立てない人に対して、自分がわかりやすく伝わりやすいように話をしたり、メッセージを送ったとしても、なかなかこちらの意図どおりに受け取ってくれないことがある。
なぜか違った解釈をしてしまったり、自分の都合のいいように解釈してしまったり、逆にとても悪く捉えられてしまったり……。
どんなに「これくらいわかりやすく話せばわかってくれるだろう」というような工夫を凝らしても、結局理解してくれることは少ないものだ。それはやっぱり相手の視点という概念すら、すっぽり抜けてしまっているから他人目線の検討ができないのだ。
自分と他人は別であるという感覚をしっかりもっていると、自分の理論と相手の理論を分けて考えることができる。
しかし、自分と他人の違いが分からず、自分の感覚が強い人は、相手についてや相手への対応も、自分の理論で進めてしまう。だから話はなかなか噛み合わないし、通じないことも多い。一見理解した風に見えても、根本では全く理解していなくてすぐに忘れてしまっていることも、けっこう多いと感じている。
人の視点に立てない人とは、距離を置くしかない

残念なことに、相手の視点に立つことができない人は、話が通じないことも多い。
心の底からわかり合えたり、理解し合えたりすることは難しいと感じている。
どうしたってこの世の中は、自分のことより人のことばかり考えて生きてきてしまった人と、人のことより自分のことばかり考えてきた人がいて、そういう関係性があるから壊れずになんとかもってきた部分もあるのだと思う。
しかし、人の視点に立てない人が優しい人を振り回しているのは事実としてあることだと感じている。
人の視点に立てる人とだけ関わっていると、本当にもめごとが起きないし、ストレスがないのだ。
しんどい関係性の人とは、やっぱり関係を切る方がいいし、もしくは一定の虚勢線を張るようにしたほうがいいと思っている。相手への違和感、不信感は、きっと間違いではない。こちらから迎合することは、なるべく避けるように気をつけなければいけない。……といっても、それがなかなかできないものだし、気づくとまた同じようなパターンで苦しんでいたり、相手のタイプを見抜けずに近づいてしまったりすることもあるから、難しいものなのだけれど。/夏野新