「自分はHSPなのかな?」
「もしかして発達障害なのかも……?」
「私の偏った性格は、何かの病気なのかもしれない」
科学が進歩し、人の性質や心理、脳についての研究がどんどん進んでいる現代。そしてその情報がこうしてネット上で簡単に取得できる時代になりましたね。
当メディアでも、人の性格や悩みなど心に関係することをたくさん扱っていますが、その中で多くの人が「私は○○なのだろうか?」というところで立ち止まってしまう様子をいくつも目にしました。
たとえば
「私はHSPかもしれないけど、当てはまらない部分もあるからHSPではないのかもしれない」とか「発達障害なのか、HSPなのかどっちかわからない」といった、分類で悩んでしまうというケース。
もしくは、発達障害の人に対して「みんなそうだよ」「誰でもそういうところあるでしょう」という声を投げかけられることもありますよね。
HSPに関しては、SNS上でも話題になり「自分もHSPの特徴に当てはまるけど、それを特別なこと捉えるなんておかしい」なんていう意見を目にしたこともあります。
自分の気質をひとつの「名称」としてあらわすことで、逆に悩みの種が増えたり、批判や論争が巻き起こったりするのです。
なぜ、自分をカテゴライズすることによって、このように厄介なことになってしまうのか。この記事では、もう一度自分の「気質」や「発達の偏り」「病名」などについて考えてみたいと思います。
なぜ、自分の特性に「名前」がつくの?
自分の特徴を表すもの、それが気質・発達の偏り・病名です。それ以外にも、人格形成の上で非常に重要な要素を担っている「アダルトチルドレン」や「愛着障害」というのも、自分の特徴を表すひとつのカテゴリーです。
なぜ、自分の特徴の起因となるものに名前を付けるのかというと、その理由はたったひとつ「自分を理解する」ためです。
筆者の場合は、自分がアダルトチルドレンであると知ってからというもの、そこから自分の生きづらさを一つずつ解消していくことができるようになりました。
また、HSPという概念を知ったことで自分の脳の特性をさらに深く理解できるようになり「周囲と自分がどうして違うのか?」「なぜ自分はこんなにもしんどさを抱えてしまうのか」などに、納得がいきやすくなってきたのです。
さらにこうして発信を始めてからというもの、周囲にはADHDや自閉症スペクトラム症、精神障がいなどと付き合い続けている人たちとの交流も増えました。
誰しもが「人とは違う」ということを感じていて、人と違うと感じている人は私が思っていたよりもとてもたくさんいました。
特性の名前は「自分を理解して生きやすく変えていくため」のもの
HSP・ADHD・自閉症スペクトラム症・アダルトチルドレン・精神疾患など、すべては「自分を理解して生きやすく変えていくため」にあります。
自分はどうして生きづらいのだろう?と考えたとき、その原因と解決策を探るための目次のようなものです。世の中には膨大な情報と知識がありますが、何が自分に合った情報なのかを見つけるときに、目次やわかりやすい見出しが必要なわけです。
人によっては、適切な支援を受ける必要があるほど困っている人もいます。逆に、自分で本を読んだりして調べていくうちに、だんだん自分という人間が理解できて生きづらさから遠のく人もいる。最初から生きづらいと感じていない人は、そのような分類の「名前」を聞いても「へぇ~、自分にはよく当てはまっているわ」と思うだけで、そこから先の深堀する必要のない人もいるのです。
つまり、生きづらさを感じていない人は、最初から「自分は自分なのだ」「これが自分なんだ」と思いやすかった人。そして、生きづらさを感じている人は「こんな自分ではダメ」「自分はおかしいのだ」と思うような経験をした人なのです。
「この子はどんな子なんだろう?」という視点で育ってこなかった
「自分はおかしいのではないか」「こんな自分ではダメなんだ」と思ってきた人は、おそらく大人から「この子はどんな子なんだろう?」という視点を持って育ててもらえなかったと考えてもよいでしょう。
中には、とても尖った脳の特徴をもっていても、周囲の大人が「この子は何に困っていて、何が好きで嫌いで、何が得意なんだろう」と、その子自身に焦点を当てて育てられた人もいるのです。
「この子はこれが苦手なんだな。では、そんな子がもっと力を発揮するには何を教えてあげたらいいのか?どんな言葉をかけて、どんな手順で物事を進めたらいいのかな?」という視点。これが、本来の子どもをサポートする教育や支援です。
ただ、昔は「個性」というものが間違って捉えられていたり、周囲に足並みをそろえることがよいことだと信じられていたり、学力や成績といった誰かが決めた基準に達することが「必要なこと」だと思われていましたよね。
だからこそ「この子はどういう人間か」よりも「この子が社会からはみ出さないために厳しくしなくては」という考えによって育ってきた人がとても多いのです。
人と違うこと、苦手なことが多い、基準に満たない……という側面があると、強く叱責されたり罰を受けたりすることもあったかもしれません。それが今も強く記憶に残っていて、その時の記憶を使って生きている。
だからこそ、特性の名前に出会って「HSPはこんなことが苦手です」「ADHDはこんなことがうまくできません」という風に解説してもらうと「そうなんだ!自分はだからうまくできなかったんだ!」と感動さえするわけです。
「自分がダメ」なのではなくて「自分はどういう人間か」をわかってもらいたかったし、自分でも知りたかった。もっと早く知りたかったと思う人が多いはずです。
それは、自分が特定のカテゴリーに分類されて、特別扱いをされたかったわけではありません。
「あなたは、どういう人間なの?」と、深く関心をもってほしかっただけなのではないでしょうか。
尖った特性は「異常」や「特別」ではない
今では発達障害やHSPなど、生まれつきの特性をもっていることが「異常」や「特別」なこととして認識されていることも少なくありません。
しかし、自分の特性を表す名前は、自分を理解するための情報や知識に巡り合うための目次に過ぎないのです。自分が人と比べて異常なのでもないし、特別な存在なわけでもありません。
人間は、誰一人として「同じ」ではないといろいろなシーンで言われますよね。みんな口では「個性」だの「オンリーワン」だのと言いますが、結局は他人と比較してしまう部分がまだまだあるのです。また、分類することに一生懸命になって、自分の生きやすさを追求するという本来の目的からそれてしまうこともあります。
特性はグラデーション。人間のでき方はすべて違う

例えば、明確な診断基準のある発達障害も、各種の特徴が重なり合っているという事実があります。人の脳の特性をはっきり分ける、というのは非常に難しいのです。
もちろん、発達障害だけでなく、これにHSPや愛着障害といったほかの概念も交わってきます。人間は複雑なものですよね。トマトはナス科、イチゴはバラ科……のように、はっきり分けることなんてできないのです。
もっと言えば、男女の分類だってきっちり二通りに分けることができない側面をもっていると感じます。女性らしい一面をもっている人も、時々は男性性の強い論理的な思考をすることもある。
繊細で中性的な面をもつ男性が、実は男らしい気概を胸に秘めているなんてこともある。男女の分類すら、はっきり2色に分けることはできないのです。
どんな人にも、個性的な脳の傾向があります。
- 人見知りしやすい
- 内向的である
- おっちょこちょい
- そそっかしい
- 飽きっぽい
- 思い立ったら即行動
- 怖がり
- 忘れっぽい
このような性格的な特徴に対して「だからダメなんだ」とか「矯正しなければ社会で生きられない」というのは古い考え方だし、どこかで教わってきた古い記憶です。
こんな性格の自分は、どういう風に工夫したらいいのかな?
こんな特徴があるから、何を回避して何を選べばいいのかな?ということを考える。
とてもシンプルな考え方にシフトチェンジしていきたいものです。
分類することに一生懸命になってはいけない
筆者自身、自分は本当にHSPなのだろうか?不注意傾向も強いし、受動型アスペルガーの特徴にも当てはまる。そもそもアダルトチルドレンの素質はどのくらい影響しているのか……ということに意識が向いてしまっていた時期がありました。
結局、自分は発達バランスが悪いのか?アダルトチルドレンの影響なのか?やっぱりHSPなのか?いやいや、自分のこともはっきりわからないなんて、ただのダメな人間なのか……というところをぐるぐる回っていた時期があったのです。
「これが自分である」という考えを置き去りにして、分類することや正確に判定することにこだわってしまったのですね。これでは目的が変わってしまうし、さらに苦しくなるばかりです。
特性の分類を使って、自分という人間を紐解くことができればそれでよかったはずなのです。私自身、完璧主義で白黒はっきり思考をしやすいという特性があるので「判定」「分類」「解明」にこだわっていました。
特性の診断チェックリストはあくまでも、専門家が作ったひとつの基準にすぎません。誰もが「当てはまる部分もあるし、当てはまらないところもある」ものなのです。
たとえ診断がついている場合でも、発達障害の人の特徴としてよく挙げられる特徴に当てはまらないこともあれば、診断を受けていないけれど発達に明らかな偏りがあるという人もいる。
分類や診断にこだわることで、自分らしさから遠のいてしまうこともあると私は考えているのです。
自分の特性をどこにカテゴライズするのがしっくりくるか?
では、分類やカテゴリは一切必要ないのか?
そんなことはありません。自分をどこかにカテゴライズすることは、似たような悩みを持つ人や感覚の合う人、感性の似ている人とマッチングするための手掛かりになりますよね。
このメディアも「マイノリティ」や「ネガティブ」というカテゴリーの中に存在しています。そこに集まってくれる人、共感してくれる人、同じ気持ちや感性を共有できる人を集めるための目次、見出しになっているのです。
しかし、同じような性格、特性のある人でも、マイノリティやネガティブという言葉に惹かれない人もいます。自分を何にカテゴライズするのが一番しっくりくるのか?というのは、人によって違うのですね。
自分に当てはまるからといって、馴染めない名称やカテゴリーに属する必要はないのです。自分を表現するときに、どんな言葉を使えば一番しっくりくるか、自分が納得できるかというのが何より大事。
同じ特徴をもっていても、惹かれるコミュニティや言葉、ジャンルというのは千差万別。結局はやっぱり「なんでもあり」だし「これが自分だ」という感覚が最終的に求められるのです。
ナビゲーションをもとに「自分とはどういう人間か?」をはっきりさせていく
自分とはどういう人間なのかを、それぞれがもっとはっきりさせていく。そのために、気質・発達特性・病名といったジャンル分けがされているだけ。分類は、人を知識や情報、適切な支援、人と人との縁の中にナビゲートしてくれるものなのではないでしょうか。
だからこそ、その名前自体に深い意味はありません。それを一つのヒントとして、自分への理解を深めたり、受容される感覚を得る。また、自分に合った実行機能や生き方を身に着けていくことさえできればいいのです。
人の性格や特性を分類して、その分類の中で批判しあったり、分類すること自体にこだわったりすると、生きやすさからはさらに遠のいてしまうことがありますよね。
そうならないために、分類の根本は「生きやすくなるためのナビゲーション」であるということを念頭に置いておきたいものです。さらに、人間の性質はグラデーションであること、まったく同じ成り立ちをしている人はひとりもいないのだということも忘れずにいたいと思っています。/夏野 新