深く傷ついた体験は、思考でコントロールできずに、五感すべてで身体に体感として刻まれているのだと思う。自分に向けられた鬼のような相手の表情を見ていた視覚、ひどい言葉を聞き続けた聴覚、つらい時期によく嗅いでいた香り、1人で泣きながら食べた食事の味、緊張で眠れなかった夜のシーツの感触、そのすべてが刻まれている。
私の中のインナーチャイルド(傷ついた小さな少女)は、特に”嗅覚”に敏感に反応している。それは、秋ごろになると咲く金木犀の香りが、あれから20年以上経っていても、ふいに記憶を呼び戻すからだ。
小さい頃住んでいたアパートのそばに、大きな金木犀の木があった。季節が来ると、風に乗って窓から入り込んでくるほど、なんとも言えないあの香り。学校に行くときも帰る時も、外で遊んでいる時も、あの花の香りは胃が痛くなるくらい切なかった。時々「プールサイドの匂いがすると、初恋を思い出す」なんて言う人がいるのは、当時の若くて甘酸っぱい記憶がよみがえるからなのだろう。
私の母は、金木犀が好きだった。だから秋になると、「いい匂いがするね。綺麗だね。」と毎年嬉しそうに笑った。私は、母が笑うことが安心だった。疲れている姿やつらそうな姿を見ている時は、何か得体の知れない大きな緊張と不安が全身を支配してゆく感覚がしたものだ。金木犀が咲くことで母が喜ぶなら、なぜ私は傷ついた感覚を思い出してしまうのか。
それは、安心から恐怖へと立ち戻る瞬間を強く感じてしまうからなのだと思う。怖い思いも不安も寂しさも、不思議なものでずっとそうならば慣れてしまう。しかし、その恐怖が解き放たれる瞬間を知ってしまえば、その安心を手放すのが異常に怖くなる。「ずっと安心できないなら、ひとときの安心感を与えないでくれ」と心が叫んでいるように思えた。そんな安心など、残酷だと。
仕事で忙しくめったに授業参観に来なかった母が、珍しく来てくれた小学3年生の秋、一緒に歩いた帰り道で私が感じていた幸福感は、今までの人生を遡っても一番大きかったように思う。それほどに「お母さんが来てくれた」ということが特別な出来事だったのだ。「よく頑張ったね」と褒めてくれた、あの笑顔のそばにあった金木犀のいい香り。私の中に深く深く刻まれてしまった。
けれど現実は、母が不在の間に起こる虐待の毎日がいつでもそこにあった。あの帰り道の幸せな夕暮れは、嘘だったと思うくらい一瞬で元の世界に戻されてしまったのだ。だから私は、こう思ったんだと思う。「もう幸せとか、見せないでほしい」。

クシシュトフKowalik
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それは今でも、感覚として消えずに残っている。幸せを感じるのが怖い、安心を覚えるのが怖い、それは幸せになりたくないわけではなく、落差のとてつもない苦しみと絶望感を、知っているからなのだ。形あるものはいつか壊れるのだから、今は今を大切にすればいいなんて私には納得できそうもない。いつか壊れるのなら与えないでほしいとさえ思う。柔軟なやり方が苦手で、愛されることが怖く、それでいて絶対的なものなどないと理解している。これが私の、インナーチャイルドである。
今はもうあの時の自分ではない。それなりに居場所も見つけ、子を持ったことで生きる力もずいぶん身に着けた。自分の内面や気質、弱点や強みだってある程度はわかってきたつもりだ。だからといって、完全に過去の傷が癒えることはない。それでも少しずつ、いくつ歳を重ねればいいかはわからないけれど、自分なりに人生を歩んでいくのだ。
今は自分の子供があの時と同じ小学3年生。秋になると、落ち葉やどんぐりや紅葉を拾っては私に見せてくれる。「秋って色々楽しいから好き!」と無邪気に笑う子供のそばで、私は変わることのない安心をあげよう、と強く心に誓う。いつかは自分の子供と「金木犀が咲いたよ。綺麗だね。」と話して笑い合いたい。ずっと朽ちることない、愛情をきっとあげられると、そこだけは誇れる自分だ。/kandouya編集部 森花