
私は、自分の感情がわからない、気づきにくい性格です。
自分の感情に気づきにくい……というと、なんだかピンとこない人もいるかもしれません。
私の場合は、ずっと「自分が何を感じているかわからない」と思うことがたくさんありました。以前は、感情にブレーキやブロックがかかっているのだと思っていたのですが、よくよく考えたり調べたりしているうちに、大きく違う考察に辿りつきました。
この記事は、あくまでも個人的な体験や考察、分析を書いたものです。専門的な文献やケース例を読みながら辿り着いたことではありますが、すべてを鵜呑みにすることなくひとつの参考にしていただければ幸いです。
自分のどんな感情にも気づかない、気持ちがわからない
私は、喜怒哀楽のどの感情に対しても、気づきにくいしわからないことが多いです。
もちろん、楽しいと感じることもあるし、大笑いすることとかもありますし、泣くこともあります。でも、今自分が何で泣いているのかがよくわからないこともたくさんあります。
時と場合によりますが、周囲の影響を受けて「楽しい」「苦しい」などという感情を自分が感じているのだ、と思い込んでいるときもあります。
いくつかの例をあげながら、自分の感情がわからない性格についてお話していきますね。
怒り・悲しみがわかりにくい
最初に「自分で自分の感情がわからないかもしれない」と思ったのは、友人とのやりとりでした。何気なく話した知人とのできごとに対し、友人は「ねぇ、あなたがされてること、それってすごい失礼じゃない?」と指摘してくれたんですね。彼女は怒っていました。
私は「そうかなぁ?…そうなのかな?」ととぼけたようなことを言った気がします。ただ、言われるまで怒るとか、嫌という感情はまるでなかったです。
しかし、心のどこかでは何かモヤモヤしたものを持っていたのだと、今思い返してみるとよくわかります。だからこそ、その出来事を話したのでしょう。同じようなことを、夫からも指摘されたことが何度かあります。
思い返せば、昔からそうでした。何気なく話したことに対して、親がひとりで怒っていたり、学校や習い事先にクレームを入れることもありました。
ただ、私は「悲しい」や「怒り」という気持ちがよくわからず、ただ「今日あったできごと」を話しただけということも多かった気がします。
会話の中では、今も昔も「嫌だった」「ムカつく」など感情を形容する言葉を使うこともあります。しかし、表情と言葉が一致していないことがあると、昔はよく言われていました。
嬉しい気持ちもわからない、持続しない
誰かに褒められたり、好きだと言われたり、プレゼントをもらったり……そういうことは、ありがたいことにときどきあります。
でも、そういうときにどんな顔をしたらいいかわかりません。
正確に言うと、どういう顔をすべきかをずっと学んで試し続けてきたという感覚です。
なので、自分自身が嬉しいのかもわからないし、びっくり、感動も薄い。
もちろん、嬉しいと感じることもあるんです。ただ、本当に嬉しいときは「嬉しいのか」「悲しいのか」の違いがわからなかったり、無自覚に涙が出てきたりします。
でもそれはすごくまれなことで、ふだんの日常の中にはほとんどありません。
それでも「これはきっと重要だろう」と思える、人からの褒め言葉やメッセージ、メールの文面などがあります。嬉しいという感情はなくても、そこには感謝するという気持ちがあるんですね。
なので、そういうものは携帯のメモ帳などにとっておき、時間が経ってからなんども眺めたりしています。
ただ「重要である」という感覚の方が強くて「嬉しい」や「感動」といった感情はそれほど認知できません。
また、とても盛り上がるようなできごと、明るい雰囲気、感動的な場面に遭遇しても、そのとき感じたポジティブな感情が持続しません。
すぐに冷めてしまうので「もう少し感動した表現を続けたほうがいいのではないか」とか「こんなに早く素に戻るのはおかしいのではないか」というように、思考が先行しやすいです。
それに加えて、夫にはよく「楽しい?」とか「嬉しい?」などと尋ねられます。おそらく、楽しそうにも、嬉しそうにも見えないからです。
調子が悪いときには「疲れたなら、疲れたと言えばいいのに」「僕じゃなくて、君はどうしたいの?」とも、よく言われます。
でも、私は自分が疲れているのかも、どうしたいのかもわからないことが多いのです。寝込んでしまうくらい体調が悪くなってから「あぁ、疲れていたな」「自分の意に反したことをしていたのだな」と気付くのです。
それから「楽しい」と「苦しい」と「怖い」の違いも、わからないことがあります。好きも、嫌いも、理解するのにとても時間がかかりますし、言葉にするのがとても苦手です。
寂しいという気持ちにも気づいていなかった
私は幼い頃……といっても、小学生の頃に過食嘔吐をしていました。
両親は共働きで、私はひとりっこ。近所に友達もいなかったので、ひとりで留守番をしていることが多い環境にありました。
私はひとりでいることにあまり抵抗がなく「仕事ばかりでごめんね」と言う母に対し、いつも「ひとりのほうが気楽だから全然平気」とよく言ったことを鮮明に思い出します。それは、私の感覚では「本心」でした。
確かに、「母が仕事ばかりでさみしいな」と感じたことがないのです。ひとりで遊ぶのも、ごろごろするのも、寝るのも、時間をつぶすのも得意でした。小学校1年生ごろから、8~9時間くらいの間、ずっとひとりでもまったく平気。
ただ、家じゅうにある食べ物を、よく食べつくしていました。お腹がいっぱいなのに、気持ちが悪いのに、ずっと食べていました。食べる物がなくなって、マーガリンやマヨネーズなどを食べることもあった。
そして、気持ちが悪くなって、自分で口に手を突っ込んで吐き戻すのを繰り返していることが頻繁にありました。
でも、さみしいと感じたことはありません。大人になってから「あの行動はおかしかったな」と思い、たぶん寂しかったのだろうなと気づいたのです。
感情がわからない、自覚できない アレキシサイミア(失感情症)

感情がわからない、感情を認知できないことを「アレキシサイミア(失感情症)」といいます。
日本語では「感情を失う」と書くので、感情がなくなってしまうもののように誤解されやすい症状です。しかし、本来感情のない人間はいません。犬や猫といった動物でさえ、しっかり感情を持って生まれ、生きています。
しかし「今自分が何を感じているか」ということを、すぐにわからなかったり、自覚することができなかったりする人がいるのです。
感情はそこに生まれているのに、それを自分自身で自覚できないと、言葉でそれを表現したりすることはないですし、その感情をどうやって処理すればいいかもわかりません。
また、感じていることと、表情や行動がズレていたり、まったく違ったりするので、周囲の人から誤解を受けたり理解されにくいこともあります。
そしてストレスに対する適切な対処法がいつまでたってもわからないというのも、大きな問題です。溜め込んでは体の調子を崩す、溜め込んでは体の調子を崩すということを繰り返す場合もあります。
私の場合、小学校5年生のときに過呼吸症候群になり、とつぜん倒れてしまいました。そういうできごとがあったのは覚えているのですが、記憶はありません。病院に行ったようですが、それもまったく覚えていません。翌日から紙袋を携帯するように言われたことだけは覚えています。
中学3年生になってからは、自傷行為をはじめました。興味本位でしたことですが、やめられなくなってしまい、その後2年くらい続けていました。
17歳のときに親元を離れましたが、当時交際していた夫の前で自分をコントロールできない場面に苦しんだこともあります。
自分の意思で抑えることができない激しい衝動が湧いて、異常なほどイライラします。その衝動は、特定のパターンで起こる規則性があり、そのパターンに陥ると声をかけられたりなだめられたりしても、自分の行動をとめることができませんでした。
出かけ先から家に返ってくると、決まって異常な感情の波がやってきました。それがやってくると、私は泣きながら、髪を振り乱すようにして部屋中を片付けて回る、という行動がやめられなかったのです。
部屋が散らかっているのが嫌とか、疲れているとか、可能性として考えられることはいくつかあります。でも、当時は「この気持ちが何なのか」「自分が何をしているのか」がわかりませんでした。
他にも私は、恐怖を感じるとパニックを起こすことがありましたが、今はもうまったくと言っていいほど、コントロール性を失うことはありません。15年くらいかけて「自分がなんなのか」を調べ続けてきたことによって、本当によくなりました。
アレキシサイミア(失感情症)は生まれつきと、環境の影響の2つの可能性がある

感情に気づかない、感情がわからないアレキシサイミアは、生まれつきの先天的なものと、後天的に起こるものと大きく2つに分けられるようです。
私の場合は、先天的なものである可能性が高いです。その経緯について、少し長くなりますが書いてみたいと思います。
私の家系の遺伝要因
アレキシサイミアの原因ははっきりと解明されているわけではありません。しかし、遺伝要因も関係があるということは分かっています。
私がアレキシミサイアに気づいたのは、自分の息子が受けた心理検査の結果でした。実は息子も約1年ほど、原因不明の吐き気や頭痛に悩んでおり、発達障害の知能・心理検査をすすめられ、受けることにしたのです。
その検査結果報告書に「感情に気づきにくい傾向が示されている」との記述がありました。確かに以前から、息子が感情を抑えやすいところがあるのはわかっていました。しかし、自分にもそういうところがあるので「私の子だからなぁ」としか思っていなかったんです。これが、いけないところだったと反省しました。
ただそこでふと、私たち親子が抱える「感情に気づきにくい」「感情がわからない」ことについてもっと知りたくなり、辿りついたのが「アレキシサイミア」だったのです。
さらに、これは遺伝要因も関係が深い性質であるとのこと。私は以前、母親から「そのときは全然嫌じゃないのに、あとから感情が出てきてトラブルになることがある」という相談を受けていたんですね。
つまり母親も、アレキシサイミアの傾向があるということになります。現に母は、感情のコントロールがとても苦手でした。それによって、私に対する虐待をしてしまったという経緯も辻褄が合うでしょう。
さらに、アレキシサイミアについての論文の中には「慢性関節リウマチ」に対しても、高確率でアレキシサイミア傾向が示されているという記述がありました。慢性関節リウマチを患っていたのは、私の祖母、母の母親です。
遺伝に関して、私はまったく専門家でもなんでもありませんので確かなことは言えません。しかし、その可能性が高いように思っています。
自分の感情認知について、この記事に書き綴るにつれて、今まで自分がどこかおかしかったところが一つの線でつながるように感じています。
私は、いつも「ずっと頭で考え続けてきたことが、一つの線でつながるとき」に、もっとも大きな感動や喜びといった、感情を抱くのです。それも、私が感情を認識するよりも先に、頭で考えることや文献を探すことが先行しているからなのかもしれません。
後天的なアレキシミサイア
私は、親から虐待を受けていた経験があります。恐怖を感じるとパニックに陥っていたのはそのためです。似たような状況になったり、当時の記憶とリンクする状況になるとパニックになったり、思考停止して5歳児のようにうずくまったりしてしまうことがありました。
このような概念を知らないときは「私は今も、恐怖によって何も感じないようにしているのではないか」と思っていました。
でも、アレキシサイミアは感情に気づかないので、苦しみや恐怖などにも鈍いのではないか……?
そう考える方もいるかもしれません。
しかし、アレキシミサイアは非常に多くの疾患との関連があるということが疫学的にわかっています。私はかつて、PTSD(心的外傷後ストレス障害)でした。この疾患も、アレキシサイミアとの関連性があるものです。アレキシサイミアは心身症との関係が深く、体の健康を左右する重要な要因になるということを示した論文もあります。
後天的な環境要因で、アレキシサイミア傾向になる場合もあります。怖い思いをしたり、苦しい思いをしたりすることで、苦しい・怖い・悲しいなどのネガティブな感情を感じないようになることもあるのです。
私の家系も代々、喪失体験や虐待、発達の偏りなど様々な障害や問題のある家系だったように思います。そのため、アレキシサイミア傾向が、遺伝子ではなく「周囲の接し方による脳のクセ」として継承されてきた可能性もあるという風に私は考えています。
一方で、アレキシサイミア傾向があることによって、小さな出来事も大きなトラウマとして傷になることがあります。アレキシサイミア傾向のない人にくらべて、トラウマが脳に残りやすいという特徴があるのです。
そのため、結局どちらなのかはわかりません。
ただ、今回息子にそういう傾向がみられたことを、私はどうしても軽く考えられないのです。
気づきにくい感情を、適切な方法で引き出してあげたい
アレキシサイミアは、人口の約10%程度の割合だとされています。それほど少ない数字ではありませんし、その傾向がみられる……という程度であればもっと数は多い可能性もあるでしょう。
私は、何でもかんでも病名や症状名をつけて、主張をしたいわけではありません。
このような特徴をもっている場合、周囲の人が気づいてあげること、何かのヒントを発してあげることも非常に大切だと思っているのです。
たとえば、私に何度も「楽しい?」「嬉しい?」と聞く夫。「それは失礼なことを言われてるよ」と教えてくれる友人。この人たちは直接的に、私が自分の感情を認知していないという指摘をしているわけではありません。しかし、それに気づかせてくれるヒントを投げかけてくれていました。
そして、まだ子どもである息子の生きにくさにも、気づくことができました。
子どもは自分が感情に気づいていないなどと、わかりません。大人でもわからないのですから、子どもはなおさらですよね。わからないなりに、試行錯誤したり、周囲の様子を伺ったり、人の反応を見たり、迎合することもあります。それによって、ますます自分がわからなくなっていくのです。
大人がいち早く気づき、適切な感情の自覚の仕方、受け止め方、対処の方法を一緒に考え、一緒にやっていくことが求められているように、私は今感じています。
私は自分の感情に気づかなくても、大切なことに気づくことができたのではないか。そんな風にさえ思っています。決してこの症状に対して悲観的になっているわけではなく、大発見であるように思っているのです。
私はつぎに、それを「こういう事例がある」と語ることによって、同じように「自分がわからない」と漠然と思っている人に届けたいなと思いました。
自分の感情がわからない、感情に気づかない人は「自分が感情に気づいていない」ということにも、気づきません。私は31歳になってはじめて気づき、その感覚に確証を持つことができたのです。
あらゆる体の不調や、心のバランスを乱す原因が、このアレキシサイミアである可能性も十分にあり得るのではないか。
自分の経験を通じて、そう思っています。/夏野 新